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2006年9月 5日 (火)

懐かしのDDR (その7 壁の崩壊)

私のブログに遊びに来てくださり、ありがとうございます。こうして古い写真を十数年ぶりに眺めてみますと、出てくるのはため息ばかり。

「あぁ・・・あの頃は若かった。お肌がピチピチ」

・・・ではなく、

「あぁ・・・DDR は矛盾だらけの国だったけれど、息の詰まるような監視と規制の中、やり場のない怒りを抱えながらも みんなそれなりに工夫して前向きに頑張っていたんだなぁ・・・」

お~っと、すみません。ついつい感傷的に。DDR話にお付き合いくださいました方、あらためて御礼申し上げます。「な~んだ、この話なら知ってるよ~」と思われた方も多いと思います。我慢して読んで下った方、ありがとうございました。

DDR では、どこへ行っても親切にしていただいたので、悪い印象は全く持っておりませんでした。当局のやり方には「?」とか「!?%\#*?+@....!!!」と感じることが多かったのですが。壁が崩壊したとのニュースは、当時勤めていたドイツ系企業のモニター(ロイター)で知りました。目頭が熱くなったのをよく覚えています。

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壁の崩壊 (過去の記事) ←ここでも書かせていただいたのですが、1989年10月に旅行した際、ドイツでは東西とも様子が一変していました。テレビでは連日、東から西へ逃げる人々の様子が映し出されていました。その時点では、まさか1ヶ月もしないうちに壁が崩壊するなどと誰も思っていなかったはず。それでも皆、「これはただ事じゃない」と感じていたようです。

ライプチヒやベルリンでは毎週月曜日に民主化を求めてデモが起こるようになりました。当局は最初、平静を装っていたようなのですが、さすがに無視できなくなったようです。


デモの拠点の一つとなった、ベルリンのゲッセマネ教会。「不当に逮捕された者たちに代わって祈ろう」と書かれた横断幕。この日は集会があった翌日で、ロウソクを灯した跡があちこちに見られました。

Photo_9

Photo_3
1989年10月17日付けの新聞の切り抜きもアルバムに貼ってありました。上の写真と同じ日の記事です。

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長々と DDR 話にお付き合いくださり、ありがとうございました。これでおしまいです。最後まで読んでくださいまして、感謝いたします。

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「DDR(ドイツ民主共和国、旧東ドイツ)」カテゴリの記事

コメント

ありちゅんさん♪

連載、お疲れ様でした。楽しく拝読致しました。
ドイツが統一されたとき、わたしは西ドイツのライン川近くの街で棲息しておりました。国境から遠かったせいか、わたしの周囲の人たちは、この歴史的な瞬間も、淡々と過ごしていたように感じられて、少々意外でした。「統一なんかしなくても良いのに」という意見の人も少なからず居て・・・・・

そんな中、東ドイツから亡命してきたという看護婦さんがいらっしゃって、彼女はとても感慨深げで、「これで、姉の家にも何不自由なくいけるわ」と喜んでいたのを聞いて、やっとその現場に居るんだなという実感がもてました。

同じドイツでも、国境近くの地域やベルリンなどと比べると、ずいぶん温度差があったような感じです。
統一後の旧DDRに行って、瓦礫ばかりで驚いたのは、以前にも書きましたが、現在はどんな姿なのでしょうね。もう一度行ってみたいです。

投稿: 樅の木 | 2006年9月 5日 (火) 12時18分

 ありちゅんさん、DDRの写真とても興味深く鑑賞させていただいて居ります。昨年の7月にドレスデンへ初めて行きました。私の記憶に間違いがなければResidenzの辺りは大規模な工事をしていました。
 その時のドレスデンで、かなり酔っ払ってフラフラとホテルへ向かって歩いていた午後8時頃、「お前は日本人か」と親しげに近付いてくるポーランド人がいました。まるで友人のようにドレスデンを案内したいと言うのです。この手の親しく語りかけてくる奴には、昔、ひどい目にあっているので彼の一緒に行こうという方向とはことごとく逆の方向に歩いてSemperoperの前まで来ました。そこでは、日本からの鬼太鼓座が公演をしていました。そのポーランド人は「行こう」といって正面入口のドアを勝ってに開けて入って行くので一緒に私も入ったら係員二名に制止されてしまいました(当たり前ですが…)。
 ポーランド人と私と係員二名のいる場所は、正面入口ドアと会場に入るドアとの間のロビーというか広い廊下で、中から太鼓の音が聞こえてきます。その場で、お金を払うから中に入れてくれと頼んだが断られた。そこで、太鼓をたたくところが見れない係員二人に、酔っ払っている私は、日本の太鼓はこのように打つんだと、昔、太鼓を習ったときのことを思い出して太鼓をたたくパフォーマンスをしてあげた。面白がってはくれたが、結局、中には入れてくれなかった。チェ!
 その後、そのポーランド人には日本から持ってきたボールペンをプレゼントして別れようとしたら、あわてて自分の使っていたボールペンを私に差し出してボールペンの交換ということになった。ほんとは良い奴だったかも知れないが、一緒に知らないところへついていったら危ない目にあっていたかも知れない。でも、そのポーランド人はドイツ語が片言なんだよね。一体ここで何をしているのだろう?

投稿: 絵描き屋 Yoshimi | 2006年9月 5日 (火) 15時00分

★樅の木さん

コメントありがとうございます。喉の具合はいかがでしょう?高らかないい音が出るようになりましたか?

東西で「統一」に対して微妙な温度差があったとのこと、私も感じました。東側は諸手を挙げて「わーい♪これで自由に旅行もできるし、何でも買えるゾ~」と喜んでいる様子でしたが、西は「いったいどれだけ負担が増えるんだろう・・・」という不安で一杯の人か、「別に知り合いがいるわけじゃなし、どってことないよ~」と無関心の人、「ま、大きくなる分にはいいんじゃないの?」とクールな人。いろいろいたような。分断されて40年も経つと、反応も様々だったでしょうね。きょうだいが東西で別れてしまった人たちとか、親子が引き離されてしまった家族とかは嬉しかったでしょうが・・・いずれにしても大変な時期を乗り越えてきたんですね、ドイツは。

投稿: ありちゅん | 2006年9月 5日 (火) 15時05分

★絵描き屋Yoshimi さん

こんにちは~ きっと遊びに来てくださると信じていました!実は私も最近、絵描き屋さんのお宅にお邪魔したんですよ。最近はドイツ語でも書いていらっしゃるんですねーーー!すごい。コメント欄も設けていらっしゃったのに気づいたのですが、書かずに読み逃げしてしまって大変失礼いたしました。前にも一度拝見したのですが、今回も再び写真を拝見しました。壁が開いた直後の写真を。懐かしかった~

数ヶ月時期はずれますが、ほぼ同じ頃、ベルリンにいたことになりますよね。あれからベルリンはすっかり様変わりしたみたいですね。今の姿を見てみたいです。

ところでドレスデンのお話、ウケました。ボールペン交換って、サッカーのユニフォーム交換みたいでほほえましくていいですね。その方もお酒が入っていたんでしょうか?かすかに聞こえてくる太鼓の音に、そのポーランド人の人も浮かれちゃったとか・・・。今はどうなのか分からないのですが、壁が開く前の東ドイツって、共産圏(つまり東欧ですが。inklusiv ロシア)の人が観光で来ていました。今回、写真を再び見てみましたら、ルーマニア人の観光客に頼まれて写真を撮ったり(住所を教えてくれて、焼き増しを送ってくれと頼まれました)ブルガリア人と仲良くなったり(言葉は通じないのですが)。みんなえらく陽気でした。「言葉が通じないと・・・」と躊躇してしまうのって、日本人だけかも。

投稿: ありちゅん | 2006年9月 5日 (火) 15時12分

連載お疲れさまでした~。壁の崩壊という歴史の「瞬間」に立ち会ったありちゅんさんの生々しいレポート、毎回大変興味深く拝見させていただきました。ありがとうございました。連載はとりあえず一区切りしたようですが、またなにかあったら、紹介してくださいね。

投稿: なすび | 2006年9月 5日 (火) 17時53分

★なすびさ~ん

すみません、一人で突っ走って書いてしまいました。寝不足です。ふぁ~ あの頃ドイツにいらした方なら誰でもご存じのことばかりですし、崩壊して17年も経った今、「いまさら」感もあるのですが、とりあえず一杯書いてしまいました。読んでくださり、ありがとうございます。 北朝鮮はどうなるんでしょう・・・。カストロがいなくなったらキューバはどこへ?ソ連は流血になることなくCISへと移行していきましたが・・・。

投稿: ありちゅん | 2006年9月 5日 (火) 21時24分

こんばんは。
DDRのお話、とても興味深かったです。
世界地理を学び始めるころには壁が崩壊していた世代です。当時の生の様子を知ることができるのは、ありがたいです。

後に西ドイツには「憲法」がなくて、代わりに憲法に当たるボン基本法があったこと、そうなった理由は東西統一の日まで「憲法」という名称はお預けにしておこう、ということだったと知ったとき、当時の人々の統一への強い願いを感じました。

また、機会がありましたら、ぜひ。
貴重な写真と体験のお話をありがとうございました。

投稿: 海鳥 | 2006年9月 5日 (火) 21時48分

★海鳥さん

こんばんは。コメントありがとうございます。私ったら結局は自分の思い出話に終始してしまったみたいで、申し訳ないな~と思っていただけに、こうしてコメントをいただくと大変嬉しいです。ありがとうございます。

>世界地理を学び始めるころには壁が崩壊していた世代

お若いのにこういったことに興味をお持ちだなんて、すばらしいと思います!私が世界史を学び始めた頃は、冷戦の真っ只中。米ソの緊張が高まる中、ゴルバチョフさんが書記長になり、少しずつ世界が変わり始めていた頃でした。西ドイツの首都はボンだった頃。大学でも西と東の緊張について、とか いかに壁が構築されたか、とか そういったことがテーマになっていました。でもまさか、壁が崩壊するなどとは思ってもみなかったです。歴史ってわからないものですね。

海鳥さん、もしよろしければ また遊びにいらしてくださいね。いろいろありがとうございます。

投稿: ありちゅん | 2006年9月 5日 (火) 21時59分

ありちゅんさん、
とても読み応えのある内容で面白かったです!
今のベルリンと比較してみるのがなによりも興味深かったです。
ゲッセマネ教会は、以前住んでいた家の近くで、
写真を見た時、あれれ?これって、アイス屋の前にあるあの教会では・・と思って地図を開いてみると、ゲッセマネ教会、とありました。
先日雑誌で、ここで行われたデモの話を読んだばかりだったので写真を見て、当時の様子を空想しました。
東独が実際、どうだったのか、ということについては、西の人も東の人もいろんなことを言うけれど、ありちゅんさんがインターショップのところで書かれていたように、
自らがその壁の内側に資本主義の象徴のような店
を作ってしまったり、
最初は、多分、理想をもって作られた国だったろうに、最後のほうは、矛盾と闇を沢山抱えていたように思います。・・でも壁崩壊の時はそんなこと何にも考えませんでした。期末試験に出そうだな〜とまぬけなことを考えただけで・・

投稿: kio | 2006年9月 7日 (木) 03時09分

★kio さん

ベルリンの記事を書いているとき、kio さんのことを考えながら書いてました(って、お会いしたことないので顔は思い浮かばないのですが・・・)きっとkio さんなら、「おっ 昔はこんなだったんだー」「おっ ここは変わってないーー」というコメントくださるだろうな~と。そしたらやっぱりコメントいただけて嬉しかったです♪ いかんせん最新のベルリンを知らないので、昔話に終始してしまいがちなので、kio さんが今の状況を補足してくださり、ありがたかったです。「ゲッセマネ」は本当はドイツ語では
「ゲッツェマネー」とかそんな発音じゃなかったでしたっけ?スペルを調べようと思いつつ、時間がないので「えいやっ」と日本語だけで載せてしまいました。あの教会に行った時は集会の翌日で、デモ参加者は既に家に帰った後だったのですが、なんだか生々しかったです。

投稿: ありちゅん | 2006年9月 7日 (木) 12時06分

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