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2006年9月 1日 (金)

懐かしのDDR (その1 入国)

もうだいぶ前になりますが、旧東ドイツ(正式名称 ドイツ民主共和国、DDR)の友人宅へ何度か旅行した際のことを書かせていただきました。この夏休みに実家へ行って、古いアルバムを何冊か持ち帰りました(ほんの一部。私ったら、お給料を全部現像代に当ててたんとちゃうかーというくらい、写真ばっかり撮っていました)。そのうち、壁が崩壊し、東西ドイツが統一された現在になっては もう見られないものをピックアップし、スキャンしてご紹介させていただければと思います。ご興味がおありの方、読んでいただければ幸いです。DDR(東ドイツ)について その1なお、記憶を頼りに書いておりますので、何か間違いを書いているかもしれません。お気づきの点がありましたら、そぉ~っと教えてくださいね(笑)

<入国について>

出張や観光の場合、Interhotel という指定のホテルに滞在しなければなりませんでした。もちろん、価格は西並み。宿泊料金も西の通貨で支払います。しかし友人宅に泊めてもらう場合は、以前にも書かせていただきましたように、別に申請する必要がありました。これがその申請書です。私が最後にDDRへ行った際(1989年10月)、コピーを取っておいたものです。 個人情報が含まれますので、ほとんど消させていただきました・・・。代わりに我が家のワンコありちゅんがサインとハンコをぺったん。必要事項を記入し、Reisebüro der DDR (DDR旅行会社)に郵送します。すると、審査の後に、ビザを取得するための文書が送られてきます。ちなみに、審査料として30ドル請求されました。

Reiseantrag__2

Reiseantrag_1

申請内容は:氏名や住所、パスポートの番号など/勤め先・職業/滞在予定日、滞在先/受け入れ先(友人)の氏名・住所・ID番号/署名 など。

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P8310037

これが、その書類に添付されていたものです。ビザを受け取るための文書を1通、同封した云々ということが書かれております。私ったら、肝心の文書のコピーを取っていなかったんですねーーーあ~惜しいことをした。

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この書類を持って、申請しておいた日に国境へ行くと、国境審査の後に滞在ビザのスタンプをパスポートに押してもらえる、というシステムでした。ビザを発行してもらうのに、さらに15DM。とにかくやたら外貨を請求されました。なお、受け入れ側もあらかじめ当局に「誰それをいつからいつまで滞在させる」という申請を出しておかなければなりません。また、友人宅に着いたら、最寄の役所に出向く必要がありました。「ブジ、到着しました~。私はスパイではありませんよ~」と届けるわけです。

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なお、慢性的な外貨不足に苦しんでいたDDRは、外国人旅行者(日帰りでも)に1日最低25マルクの Mindestumtausch (両替)を義務づけておりました。入国審査の際、一緒にStaatsbank (国立銀行)で両替もしたと思います。為替のレートは、実態を全く無視した 1対 1。実際の価値は、1対4だった、いや1対10 だ、とか色々言われておりましたが、とにかく東のマルクに対する信頼はゼロ。だってDDR自体が自国の通貨を信頼していないんだもん。矛盾だらけのDDR。

P8310043_1   
アルバムにべったり貼り付いてしまい、はがれなかったのでスキャンできませんでした。写真で失礼します。こういう風に手書きのところもあれば・・・

Staatsbank_2
・・・一応、コンピューターっぽい処理をしてくれるところもありました。これは6日分、DM25×6=DM150 ですね。

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<入国後>

いったん東ドイツの中に入ると、とにかく物価が安くてビックリします。特に「日常生活において必要なもの」の価格は非常に低く抑えられていました。ただし、この「日常生活に必要」という定義が我々の定義とは全く異なり、コーヒーやカカオたっぷりのチョコレートはもう「必要品」ではないのですよね。一方、鉄道や市電などは本当に安かったです。P8310036
マイセン⇔ライプチヒが107キロメートルで10マルク10ペニヒ。西ドイツのDM と交換レートが1対1だとしても、当時の為替レートで800円くらい。

P8310041
アルバムに私が書いた文字が残っています。ベルリン⇔ポツダムがS-Bahnで30ペニヒだったそうです。当時の為替で円換算すると、24円! 今はいくらなんでしょう?

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下のピンクのチケットは、確かドレスデン⇔マイセンでした。1マルク。円換算すると、当時のレートで80円。

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Boulette_mit_bort_1
DDRの地方都市は悲惨な状況でしたが、ベルリンは首都というメンツもあり、それなりに充実しておりました。駅に Imbiss (立ち食いの食堂みたいなもの) もありました。Mitropa という名前のお店。アルバムに私が書きこんだ当時の記録によると、上のメニューは : Berlin Schöneweide 駅のMitropa で食べた「Boulette mit Brot」 85ペニヒ。Boulette は地方によってはFrikadelle とか deutsches Beefsteek とも呼ばれますが、いわゆるハンバーグです。それにポテトサラダ・ニンジンサラダがついていますね。85ペニヒは、当時のレートで68円くらい。

*Mitropa については、また別記事で書かせていただきたいな~と思います。1916年に設立された会社で、「日本食堂」みたいに、鉄道で食べ物を提供していた会社です。東西ドイツに分断した際、DUDEN みたいに東西で別々の会社に分かれたそうです。だからDDR でも Mitropa という看板を見かけたんですね。

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コメント

こちらにはどなたも投稿していないので私目が。

この写真の中で意外だったのはReichsbahnとなっていることでした。共産国でReichはないだろうし、何かの間違いだと思ったら正しかったんですね。もちろんこれは第三帝国ではなくてワイマール共和国からの延長であることを意識したものなんでしょうが。一つ勉強になりました。

投稿: U99 | 2006年9月 3日 (日) 11時56分

そういえば、東西ドイツ分割のあおりをうけた企業としては光学機器メーカーのカール・ツァイスも有名ですよね。東ドイツのツァイス・イエナは今は西側のツァイス・オーバーコッヘンに統合されてしまったらしいですが。

私、1920年代のツァイスの双眼鏡を持っているのですが、レンズが曇っているためオーバーホールをツァイスの日本支社に依頼したことがあります。しかし修理不能との事。西側に移ったツァイスは戦後、一から会社を興して工作機械などすべて一新したため、当時の製品の保守整備などはもうできないのだそうです(涙)。

投稿: U99 | 2006年9月 3日 (日) 12時12分

★U99さん

こんにちは。いつも面白い話題をありがとうございます。DR、東ドイツなら「Volksbahn」とやっても不思議じゃなかったのに、なぜかReichsbahn なんですよね。DB(Deutsche Bundesbahn)が快適&清潔この上なかったのに対し、DRは列車もボロボロ、トイレなどは汚く、おまけにVerspätung ばかりでした・・・。同じ国民なのになぜ?と思ったものです。本来、お人よしで世話好き、人懐っこい国民性なのですが、DDR時代はゆとりがなかったのかもしれません。鉄道の乗務員や窓口の係員も無愛想でしたし、不親切でした。カール・ツァイスの復興物語をテレビで見たことがあります。かなりの部分を東に残してしまったそうで、西側のツァイスは相当苦労したみたいですね。

投稿: ありちゅん | 2006年9月 3日 (日) 17時04分

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