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2007年11月

2007年11月30日 (金)

Hänschen Klein ~ Steiner - Das Eiserne Kreuz (蝶々 ~ 戦争のはらわた)

 もう1カ月以上前になりますが、「蝶々(ちょうちょ、ちょうちょ、菜の葉にとまれ~♪)」の元歌がドイツの Hänschen klein (←過去の記事です)だった、という記事を書きました。そうしましたら、いつも遊びに来てくださる方がコメント欄で教えてくださいました。映画「Cross of Iron (邦題「戦争のはらわた」、ドイツ語吹き替え版タイトル「Steiner - Das Eiserne Kreuz」)」にこの歌が使われているんだそうです。その後、spatz さんがその部分の映像が載っているサイトを見つけて教えてくださったのですが、今探しても URLが見つからない・・・ spatzさん、せっかく教えてくださったのにごめんね。しょ~がないので、YouTube で探してきました。

YouTube  ← クリックしてみてくださいね。冒頭の部分です。

「戦争のはらわた」をご覧になったことがある方はよくご存じだと思うのですが、私は初めて見たので「おぉ~」と思ってしまいました。 悲惨な映像をバックに無邪気な子供の歌声が流れると、確かに戦争のむなしさが伝わってまいります・・・。トモコさん、教えてくださいましてありがとうございました。

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 しかしこの邦題・・・もうこれで定着しちゃっているから今さら変えられないんでしょうが、何とかならなかったんでしょか~。当時はオカルトが流行ったから、こういう邦題になったと聞いたことがありましたが・・・。ウィキに詳しいことが載っています → 「戦争のはらわた」(ウィキペディア)

 12月1日追記:今、ドイツ語タイトルで検索したところ、FSK ab 16(FSK:ドイツの映倫。レイティング組織です)、つまりR-16 指定になっていました・・・。もしかして、かなりリアルなシーンもあるのでしょうか?

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2007年11月26日 (月)

カルルス煎餅とカールスバートのオブラ~テン

 レープクーヘンの台 → オブラート → カールスバートのオブラーテン と話を無理につなげていたところ、いつも大変お世話になっている「おそるべきアマチュア」様からメールで「炭酸煎餅」について教えていただきました。「鉱泉煎餅」とか「カルルス煎餅」ともいい、温泉地での名物だとか・・・。これって和製オブラーテン?! あまりのショ~ゲキに、頭の中でオブラーテンと丸いお煎餅がぐるぐるぐるぐる・・・ (ただし走馬灯のようではなく、レコードのように。)以下、いろいろ教えていただいた結果です。なお、「オブラーテン」の単数は「オブラーテ」なのですが、ここではドイツでの表記に準じ、複数で表記しますね。

炭酸煎餅 (ウィキペディア)

ウィキから一部引用いたします。『(炭酸煎餅とは)チェコのカルロヴィ・ヴァリ(カルルスバード)に有る温泉で売られていた焼菓子を元にして作られたと言う説(カルルス煎餅)が有り、群馬県の磯部温泉(磯部煎餅)、長崎県の雲仙温泉(湯せんぺい)、愛媛県の道後温泉(温泉煎餅)等全国の温泉地で同様の品を見受けられる事が多い。』(引用終わり)

Pb240010_2 ・・・げげっ げげげっ 私は炭酸煎餅や鉱泉煎餅、カルルス煎餅といったものを知らなかったのですが、幾つか検索してみてナットク。こういったお菓子はよく売っていますよね。近所のコンビニにもあっていたので買ってしまいました(右の写真)。だあれ?カールスバート(昔はよく「カール」を「カルル」と表記しました。よって、「カルルス」。)のオブラーテンを日本人に紹介したのは。ベルツ博士かしら。それとも、ドイツへ留学していた日本人かしら。

いてもたってもいられなくなり、検索してみましたら、次のサイトを発見。風月堂の社史です。

風月堂 社史

一部引用いたします。『明治22年(1889)に帰国した恒次郎は、留学中に日本人にしてはじめての本場の本格的フランス料理を修め、菓子についてはウエハース、マシュマロ、サブレ、ワッフル、英国式の重厚なフルーツケーキ、カルルス煎餅(今日、日本の温泉地で売られている炭酸煎餅のようなもの)など、まだ日本に紹介されていなかったものを含めた数々の最新技術を持ち帰った。
 カルルス煎餅については、恒次郎が帰国する以前の明治20年(1887)、医科大学学長の三宅秀がヨーロッパより持ち帰ったカルルス煎餅を模倣して、米津松造が試作している。これを食べた三宅秀はヨーロッパの本物にも劣らぬ程の上出来と賞賛したという。』(引用終わり)

 すごっ。これを見ると、やっぱり「カルルス煎餅」って「カールスバートのオブラーテン」だと思えますよね。なお、いわゆる「ゴーフル」については、フランスのお菓子をまねて作った、と別項にありましたので、カルルス煎餅がルーツではないようです。(実はゴーフルはオブラーテンを参考にしたのではないかと思っていました・・・)

 そうこうするうちに、「おそるべきアマチュア」様からさらにサイトをご紹介いただきました。国立民族博物館の先生が書かれたサイトのようで、信頼できそうです。

温泉せんべいについて 

一部引用いたします。『そういえば、昔は温泉せんべいを「カルルスせんべい」といっていました 。『菓子の事典』で調べてみますと、砂糖に白玉子(小麦粉)、バター、卵を入れてよくまぜるのは、他のせんべいとあまりかわりませんが、大事なことは炭酸と「カルルス塩」をひとつまみ加えることです。これが温泉(鉱泉)せんべいの特徴なのです。カルルス塩はカルルス泉塩ともいって、さきのカルロヴィ・ヴァリーの温泉からつくられた塩の結晶でした。つまりカルルスというのはカルロヴィのドイツ語「カルルスバード」からきた名前です。
 カルルス塩はカルロヴィ・ヴァリーの温泉がひどく塩からかったように、温泉から精製された塩で、便秘にも消化にもよいという薬品で、のちには化学的に合成されたようです。』(引用終わり)

 カルロヴィ・ヴァリの温泉が塩辛いという記憶はないのですが(あそこのお湯は特製のコップで飲むようになっています)、きっと湯の花みたいな成分が体にいいんでしょうね。その他、チェコのコロナーダという保養地で売られていた温泉煎餅「コロナーダ」が日本の温泉煎餅のルーツだ、とするサイトもあったのですが、真偽のほどは分からない・・・ カールスバートのオブラーテンについてもドイツ語のサイトをいくつか検索してみましたが、中に「カルルス塩」が入っているとの記述がないのです・・・。まさか日本人の思い込みってことはないでしょうけど、こちらも真偽のほどは不明です。カールスバートのオブラーテン、昔は間にクリームははさまれておらず、お煎餅だけだったんだそうです。消化がいいので、療養中の人でも美味しく食べられた、という説明は見かけましたが。いずれにしましても、チェコのオブラーテンが日本の温泉煎餅のルーツなのでしょうね。ちゃん、ちゃん♪

おまけ:KARLSBAD と書かれたカルルス煎餅まであるんですね。

カルルス煎餅

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2007年11月21日 (水)

Karlsbader Oblaten? Karlovaske oplatsky? (カールスバートのオブラ~テン)

 先日、レープクーヘンの台 → オブラート → カールスバートのオブラーテンへと話がつながっていきました(というか、私が勝手につなげております)。久しぶりにカールスバートの「ゴーフル」を思い出し、ちょっと検索してみたところ、次の記事を見つけました。2005年11月の記事なので少し古いのですが、内容が面白いのでご紹介しちゃいます~。「ゴーフル」については一昨日の日記をご覧になってみてくださいね。

Radio Prag の記事 Wem gehören die Karlsbader Oblaten?

 EU内では、伝統ある「ご当地名物」の名称をめぐり、その地で作られたもの以外にご当地の名前を使用することを禁じる動きがあるんだそうです。Dresdner Stollen (ドレスナー・シュトレン)はドレスデンで焼かれたものだけ。Nürnberger Lebkuchen (ニュルンベルガー・レープクーヘン)はニュルンベルクで作られたものだけ。但馬牛は但馬産の牛だけ。宮崎の地鶏は宮崎産の鶏だけ。そんな流れの中、チェコ政府も、チェコのご当地名物をリストアップしたそうです。

 その中の1つが、温泉保養地カルロヴィ・ヴァリ(ドイツ語名カールスバート)の名物、オブラ~テン。チェコ語では Karlovarske oplatky と呼ぶんだそうです。カルロヴィ・ヴァリで作られたものだけが、この名前で呼ぶことができる、との主張です。ところが複雑な事情があったんですね・・・。

 確かにこのお菓子はカルロヴィ・ヴァリが発祥の地なのだそうですが、その製造を手がけていたのはドイツ系住民、すなわちSudetendeutsche (ズデーテン・ドイツ人)だったのだとか。皆様よくご存じだと思いますが、ズデーテンは歴史に翻弄された地方。かつては大勢のドイツ系住民がおりました。以下、ウィキペディアから引用させていただきますと:

ズデーテン地方Sudetenland)は、第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約とサン・ジェルマン条約に従ってチェコスロバキアに割譲された地域。旧オーストリア帝国領の一部で、300万人以上のドイツ人が居住していた。

ドイツでナチスが政権を獲得すると、ズデーテン・ドイツ人党が勢力を拡大した。1938年6月の地方選挙では、ドイツ人地域で9割以上もの得票を得た。こうした中、ナチスの指導者であるヒトラーが併合の意志を強めたため、イギリスの首相ネヴィル・チェンバレンは、二度にわたってヒトラーの説得を試みた。さらに、9月末にミュンヘンで独・伊・英・仏によるミュンヘン会談が開催されたが、ネヴィル・チェンバレンが宥和政策をとってズデーテン併合を容認したため、同地域は10月に併合された。この間、一貫してチェコ政府はズデーテン併合に反対していたが、その国家主権は全く尊重されなかった。また、この併合によって約80万ほどのチェコ人がドイツ領内の少数民族としての立場におかれた。

1945年、ズデーテン地方は再びチェコスロバキア領となり、同地に住む250万人以上のドイツ人がチェコスロバキアの大統領令により国外に追放されることにより、ドイツ人とチェコスロバキア人の混住の問題は解決された。』(以上、引用終わり)

 大戦後にズデーテン地方から追放されたドイツ人の中に、オブラーテン職人も含まれていたとか。彼らは大変な苦労の末、ドイツの国内で再び店を構え、「Karlsbader Oblaten (カールスバートのオブラーテン)」を再び作り始めたんだそうです。ズデーテン・ドイツ人側の言い分は、「これだって立派なカールスバートのオブラーテンだ」。 ・・・分かるような気がします。一方、チェコ側としては、「カールスバート、すなわちカルロヴィ・ヴァリの地名をつけることが許されるのは、やっぱりご当地で作られたもののみ」。

 この記事は2年前に書かれたものなので、その後どのようになったかは分からないのですが、そのうちまた検索をかけてみようと思います。ズデーテン・ドイツ人の問題はとっても複雑で、私なんかが生半可な知識で書いてはいけないテーマです。ただ、オブラーテンの影にこんな歴史があったんだ~と思ってしまいましたので、ご紹介いたしましたm(_ _)m

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2007年11月19日 (月)

Oblate (オブラ~ト)

 先日、「レープクーヘンの種は柔らかいので、オブラートの上にのっけて焼いてある」と書いたのですが、そこでふと思ってしまいました。オブラートって、ボンタンアメ(懐かしい!)などをくるむのに使う透明なフィルム状のものだようなぁ・・・と。子どもの頃、粉薬を飲むとむせるので、母がオブラートに包んでくれました。また、優しい人はきついことを言わず、オブラートに包んだ表現をしてくれますよね。レープクーヘンの台じゃ硬すぎてくるむことができない・・・ だからドイツ人は何でもストレートに言うのかしら。

Oblateを小学館の独和大辞典で調べると(他にも別の宗教的意味もありますが、省略します):
Ⅰ1 a)(丸型の)ウェファース、ゴーフル b)オブラート(剤)
  2(カトリック)(ミサの)未聖別ホスチア

 ところが、ドイツのサイトを検索しても、私がイメージするような薄いオブラートが出てこない・・・。ウィキによると、日本語の「オブラート」の語源はふるへっへんどなオランダ語 Oblaat なんだそうです。もともとはレープクーヘンの台のような、硬質のものを指すんだそうですね。ドイツ語と同じ。そこから日本の医師が薄いものを発明したんだそうです↓

柔軟オブラートと小林政太郎 (「発見!三重の歴史」サイトより)

『小林政太郎は、柔軟オブラートを発明し、日本だけでなく、世界にその商品を供給した。今やオブラートと言っても知らない人がいるかもしれない。ジャガイモなどのデンプンで作られた薄い紙状のもので、苦い粉薬を包んで飲むのに使われ、飴菓子の包装用にもなった。オブラートは19世紀後半になって日本に輸入されたが、その頃は硬質オブラート(せんべいオブラート)で、水の入った小皿に浮かべてその上に粉薬を盛り、軟らかくなるのを待って水と一緒に飲んだらしい。もっと簡単に飲めないかということから、透明で薄く、粉薬を包むのに適した柔軟オブラートを小林政太郎が苦心の末に発明した。1902年のことである。』(以上「発見!三重の歴史」サイトより)

 日本語でいう「オブラート」って、日本人の発明だったんですね。知らなかった・・・ そういえばドイツ人って粉薬は飲みませんよね。錠剤かカプセル、あるいは水に溶かして飲む薬。今でもそうかしら?日本の粉薬は麻薬と間違えられる可能性があるから気をつけろ、と以前はよく言われたのですが、今でも同じでしょうか。日本でよく見る粉薬は、漢方の影響なのかなぁ?とにかく粉末状だと飲みにくいからオブラートがあると便利ですよね。キャンディーも、高温多湿の日本ではオブラートに包まないとくっついちゃう。乾燥しているドイツではオブラートって不要なのかしら。それとも、ドイツでも使われているけど単に私が知らないだけ?ドイツでオブラートに包まれたお菓子類をご覧になったことがある方、ご教示くださいませm(_ _)m

 そんなわけで、ドイツ人やオランダ人は、「Oblate」「Oblaat」と聞くと固いお煎餅状のものを連想するんでしょうね、たぶん。DUDEN の独独辞典では Oblate の例として、Karlsbader Oblate (カールスバーダー・オブラーテ、複数はオブラーテン)が挙げられていました。そうだ、思い出した! チェコの温泉保養地 カルロヴィ・ヴァリ(ドイツ語名 カールスバート)の名物オブラーテン。見た目は風●堂のゴーフルにソックリ。チョコクリームをはさんだ2枚の薄焼き煎餅です~。あれを見たとき、「なんでコレがオブラートなの?これってゴーフルじゃん」と思ったのですが、疑問はそのまま。十ン年後に謎が解けた~~~

カールスバートのオブラーテンの画像は → コチラ

おまけ:お気に入りの袖珍獨和新辭林(1896年発行)で調べてみましたら、かわいらしい説明が:

Oblate:扁餅、御供餅(オソナヘモチ)

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 ・・・たかがオブラート、されどオブラート。すんません、私ったら一人で納得して喜んでいます。

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2007年11月17日 (土)

Lebkuchen (レープクーヘン) 見っけ!

 今日、近所の輸入食材屋さん(カ●ディ)の前を通りかかりましたら、もうクリスマス関連菓子が山積みにされていました♪ 吸い寄せられるように近づいてみましたら・・・

・・・Lebkuchen(レープクーヘン) と Stollen (シュトレン)だぁぁ・・・!!

吸い寄せられてよかった♡ シュトレンはドイツから輸入された本物が店頭に並ぶようになって久しいですし、すっかり有名になったような気がします。ですが本物のニュルンベルガー・レープクーヘンを日本のお店で見たのは初めて。すごいっ ドイツのお菓子がどんどんメジャーになる・・・。えらいこっちゃ、流行に乗り遅れちゃうわ~とばかりにお菓子をむんずとつかみ、レジに並びました、ハイ。きっとほかの輸入食材屋さんでも扱っているでしょうから、ご興味のある方はお店にGO!

レープクーヘンの由来や歴史についてはコチラ (過去の記事です)を 下の2つはどちらもニュルンベルクで作られたものですから、正真正銘の「ニュルンベルガー・レープクーヘン」ですね。

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プレーン(と言うのだろうか)と砂糖衣、チョコレートコーティングの3種。香料が強いので、慣れていない方には少し抵抗があるかも・・・。中世の香りがしますです。

Pb170007
裏返しにしたところ。種が柔らかいので、固いオブラートの上にのっけて焼いてあります。

Pb170003
ヘンゼルとグレーテルで出てくるお菓子の家 Hexenhaus (直訳:魔女の家) もありました。家を外すと中からレープクーヘンが出てきます。でもって、箱は「たのしいぬりえ」になっております・・。柄がレトロ。

Pb170001
このシュトレンは昨年も買いました。ミニサイズです。ケルンのメーカーなので、 Kölner Stollen (ケルナー・シュトレン)です。Dresdner Stollen (ドレスナー・シュトレン)と呼んでいいのは、ドレスデンで作られたものだけなんだそうな。手前はバターのシュトレン、奥はラム酒のシュトレン。

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 昨日まではとってもヒマだったのですが(ようやく夏物を整理しました・・・タオルケットや夏掛けもようやく洗いました。すごいっ 私ったらなんて偉いの~!)今日からまた忙しくなってしまいました・・・ スケジュールがキチキチ。しばらくショボい日記が続いてしまいそうなのですが、よろしければまたお寄りくださいませ。トップにある忠犬アリ公の写真は娘が撮って加工してくれたものです。キラキラ★

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2007年11月15日 (木)

Vier Minuten (4分間のピアニスト)

 昨日、友人と2人で映画を観に行きました。今年のドイツ映画祭で先行上映された作品なのですが、そのときは行けなかったので、一般公開を待っての鑑賞となりました♪

4分間のピアニスト (公式HP) ← クリックするとピアノが鳴りだしますので、職場で見てくださっている方はご注意を♪

<簡単なあらすじ>
 トラウデ・クリューガーは老いたピアノ教師。刑務所で受刑囚にピアノを教えています。ジェニー・フォン・レーベンも教え子の一人。類まれなる才能の持ち主ではあるものの、殺人罪で服役中の身でした。忌まわしい過去がトラウマとなり、極度の人間不信に陥ったジェニーは、固く心を閉ざしています。クリューガーはそんな彼女の才能を見抜き、周囲の反対を押し切って彼女をコンクールに出場させようとします。クリューガーもまた、戦時中に最愛の人を失い、ピアノの才能に恵まれながらもそれを生かすすべもなく、心に傷を負って孤独に生きている一人だったのです。

 ジェニーにピアノの王道を進ませるべく正統派の演奏法を教え込もうとするクリューガー。愛を知らずに育ったジェニーはクリューガーの教えを素直に受けることができません。たびたび癇癪を起こしては人を傷つけ、問題を起こします。それでも根気強くピアノを指導するクリューガーに、ジェニーは少しずつ心を開いていくのでした。

 しかし、ジェニーに手を焼く刑務官たちはコンクールの決勝を目前にした彼女にピアノを禁止してしまいます。ジェニーの才能を信じるクリューガーは、オペラ座で4分間の演奏をさせるべく、驚くべき行動に出るのでした…

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 ジェニーを演じたハンナ・ヘルツシュプルングは、これが映画デビューなんだそうです。それまでもテレビなどには端役で出ていたそうですが、あまり目立った存在ではなかったとのこと。でも、その話が信じられないほど卓越した演技力を見せています。童顔なだけに、突然「ブチ切れる」エキセントリックさがよく出ていたと思いました。本国HPによると、役作りのために数か月にわたってピアノのレッスンを受け、ボクシングのトレーニングも3ヶ月間続けたそうです。確かに演奏中、背中の筋肉が際立っていました。あれはトレーニングの賜物なんですね。

 老いたピアノ教師を演じたのは、モニカ・ブライプトロイ。あのモーリッツ・ブライプトロイのママなのでありました。まだ63歳のはずですが、80歳くらいの老女を見事に演じていました。顔に深く刻まれたしわと丸まった背中が老教師の悲しく過酷な人生を物語っているようです。本国のHPによると、非常に手間のかかる特殊メイクを施したんだそうな。でも、あのオーラはメイクの効果だけではなく、演技力のなせる業なのだと思います。普段の写真とは全く違う姿に、女優とはかくあるべきだと思いました。

 ジェニーと同じ刑務所に収容されている受刑囚を演じたのはヤスミン・タバタバイ。イラン人とドイツ人の両親を持ち、「バンディッツ」で一躍有名になりました。美人というわけではないのですが、荒んだ少女を演じさせるとピカ一という気がするのは私の偏見かなぁ。そういえば「バンディッツ」でも受刑囚役でした。

 ドイツ映画らしい、重いテーマではありますが、随所に「クスッ」と笑える演出も織り交ぜてあります。クリューガーが着るハメになるTシャツの柄に、それが「日独共通の下ネタ」であることを確認。一人で感動してしまいました~。刑務官の娘が登場しますが、その女の子がとっても可愛い。昨年、とあるドラマに出演していました。その愛らしい女の子にクリューガーが厳しく言い放つ言葉「Kannst du knicksen?(←このままのセリフじゃなかったかもしれませんが、これに近かったと思います。knicksen は、膝をかがめてお辞儀することですよね。欧米の淑女がよくやるような。「あなた、お辞儀はきちんとできるの?」といった意味です)が、様々な意味を持っております。

 公式HPのトレーラーにも映っていますが、ジェニーがピアノを弾くシーンが圧巻。ジェニーの人並み外れた才能が伝わってきます。テーマが重いだけに、後味は「あ~面白かった♪スッキリ♪♪」といったものではないのですが、私は個人的にはこういう重い映画が好きです。ジェニーはクリューガー教師に心を少しずつ開いていくわけですが、「あなたに対し、個人的な関心はありません、私が愛しているのは音楽だけ」と言い切るクリューガーにも明らかに感情の変化が芽生えています。その経過が様々な形で表現されていて、好感が持てる映画だと思いました。字幕はベテランの松岡葉子さん。

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2007年11月14日 (水)

merci (メルシ~)プチ、見っけ!

 昨日の夕方、いつものようにぼ~~っとしながら近所のスーパーで買い物をしておりましたら・・・

merci (メルシ~)チョコのミニが!!!

Pb130050 いえね、これがKINOKUNI●Aですとか、ソニ●ラでしたら、それほど驚くことでもないと思うのですが、見つけたのがフツ~のスーパー。しかも雷おこしとか草加煎餅といった、よくあるお菓子の売り場に無造作に置いてあったのです~~~!! 浅草の仲見世通りを歩いていて、いきなりベルリンのテレビ塔に遭遇したような驚きでした、ハイ。

Pb130052 全部で7種類。カッコ内はパッケージに書かれていた英語からの訳です。
Helle Sahne(ミルク・クリーム)
Dunkle Mousse(ダーク・ムース)
Kaffee & Sahne(コーヒー&クリーム)
Nougat Sahne(ノワゼット・クリーム)
Herbe Sahne(ダーク・クリーム)
Praline Sahne(プラリネ・クリーム)
Mandel Sahne(アーモンド・クリーム)

P2130045 どれも美味しい♪ merci は、→ のパッケージで有名ですが、ミニも日本で売られるようになったんですね。ソニ●ラなどで発見なさったら、ぜひお求めになってくださいまし。個人的にはトブラローネよりメルシ~のほうが好き(歯にくっつかないから)。ちなみに右のオーソドックスなメルシ~は、バレンタインの時期にユザ●ヤで見つけたものです。

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Pa190015  先日、ドイツのお土産をいただいて舞い上がりましたが、これ→ も merci のミニ。新製品なんですって。これも日本に入ってこないかな~。デザインがお洒落なのです。お味は大きいmerci と同じですが、とにかくカワイイ。中身のチョコは、1辺が1センチほど。

Pa190021

 次にスーパーへ行くときは、雷おこし売り場でも気を抜かず、目を光らせてお菓子のチェックをしようと心に誓った次第です。

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2007年11月11日 (日)

Martinstag (聖マルティンの日) と Weckmann (ヴェックマン)

 11月11日は、Martinstag (聖マルティンの日)です。何コレ?私もよく知らないのです。この日、子供たちはLaterne (提燈)を持って歩くのですが、いわれはよく知りませんでした・・・。慌てて調べてみましたら:

『マルティン:祝日は11月11日。貧者に自分のマントを切って与えたことで有名なトゥールの司祭。家畜と羊飼いの守護聖者。冬の始まりの日。子供たちが堤燈を持ち、歌をうたっておねだり行列をする祝日でもある。この日がちょうを食べる』(「ドイツ民俗学」より引用)

マルティン(マルティヌスとも)については、ウィキに詳しく載っています:
『伝承によれば、アミアンで、市門の番をしているとき、偶然に見かけた貧者に自分の軍衣を半分に切って分け与えた。その夜、マルティヌスが与えた衣をまとってイエス・キリストが夢に現われた。そして天使に「ここにマルティヌスがいる。彼は洗礼を受けていない。しかし私に着るものを与えた」。マルティヌスが目覚めると、切ったはずの衣は元通りになっていた。これはマルティヌスに関するもっとも有名な逸話である。フランク王国メロヴィング朝はこのときの衣であるという聖遺物を宝物にしていた。』(ウィキペディアより引用)

 聖マルティンの日と聞くと思いだすのが Weckmann (ヴェックマン)。人の形をしたパンで、司教をかたどった物なんだとか。主にカトリック圏で広まったそうですよ。Wecken (小麦でできたパン)+Mann (人)で Weckmann。Buckmann、Buggemann、Stutenkerl など、地方によって呼称も姿も少しずつ違うみたいですが、私がよく見たのは白い Tonpfeife (陶器製のパイプ)を持ったヴェックマン。このパイプ、今でも実はとってあります。もともとはパイプではなく、Bischofsstab (司教杖)だったのだとか。一説によると、陶器製のパイプを作る職人たちの結婚式で出されたバージョンが、杖ではなくパイプだったことが起源とか。昔は聖マルティンの日~聖ニコラスの日(12月6日)の間に贈られることが多かったそうですが、最近ではクリスマスの期間までこのパンが販売されている、と Wikipedia に載っていました。

詳しくは、この新聞記事にも書いてあります → Westdeutsche Zeitung
パイプのないWeckmannですが、画像は → コチラ

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2007年11月10日 (土)

Reichskristallnacht (帝国水晶の夜)

 うっかりしておりましたが、昨日は「水晶の夜」事件が起きた日でもありました。ドイツ語では Reichskristallnacht、Kristallnacht、Reichspogromnacht などと呼ぶようです。ウィキペディアから引用させていただきますと:

水晶の夜(すいしょうのよる、独:Kristallnacht) とは、1938年11月9日夜から10日未明にかけてナチス党員・突撃隊がドイツ全土のユダヤ人住宅、商店地域、シナゴーグなどを襲撃、放火した事件である。帝国水晶の夜とも。』

『事件後も警察・消防はドイツ当局から介入を禁じられたため無法状態となり、ナチに賛同した非ユダヤ系国民によるユダヤ人商店・住宅の打ち壊し・強奪にも発展した。破壊され砕け散った窓ガラスが月明かりに照らされて水晶のように輝いたことから水晶の夜(クリスタルナハト)と言われているが、実際には殺害されたユダヤ人のおびただしい血や遺体、壊された建造物の瓦礫等で、現場は悲惨なものだったという。』(引用終わり)

 第二次大戦の映画を見ていますと、この事件が時々出てきます。「水晶の夜」という言葉では出てきませんが、「昨夜、シナゴーグやユダヤ人の商店が焼き討ちされたらしい」という噂話という形であったり、実際に被害を受けた人のセリフが出てきたり。映画を見ている人は、これで時代背景を理解するのだと思います。「Nirgendwo in Afrika (名もなきアフリカの地で)」でも確か、この事件の知らせがアフリカに届く、という形で描かれていたように思います。(記憶がおぼろげ・・・違ったらごめんなさい)

 なお、この11月9日というのは、ドイツにとっては節目となる事件が起きた日なんですね。ウィキペディアからまた引用させていただきますと:
『奇しくもこの11月9日は、ドイツ革命における皇帝ヴィルヘルム2世のオランダ亡命(1919年)、ナチスが起こしたミュンヘン一揆の鎮圧(1923年)、ベルリンの壁崩壊(1989年)の日でもある。事件が収束した翌11月10日は、その反ユダヤ主義がナチズムに影響したとされるマルティン・ルターの誕生日であった。』(引用終わり)

ウィキペディアの引用ばかりで申し訳ないのですが、ドイツ語のこのサイト↓はユダヤ人迫害に関するキーワードが満載。勉強になりますです。と同時に背筋が寒くもなります・・・。もしよろしければご覧になってくださいね → Reichspogrome 1938 (一連のユダヤ人迫害について Wiki より)

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2007年11月 9日 (金)

Der Mauerfall (ベルリンの壁崩壊)

P5070017  1989年11月9日はベルリンの壁が崩壊した日でした。あれから18年も経ったんですね・・・しみじみ。ディーリングルームで株価の乱高下をボーゼンと眺めていたドイツ人ディーラーたちの姿が今でも脳裏に焼きついています。壁の崩壊による大混乱、そして東西ドイツの統一。大変な時期をドイツ人たちはよく乗り越えてきたな、と思います。よくよく考えてみたら、壁の崩壊時に生まれた子供ももう18歳。大学生や社会人になる年頃ですよね。ベルリンの壁も歴史になりつつあるんだなぁ・・・。

写真:以前も載せた画像なのですが、ベルリンの壁崩壊を記念して作られたコイン(たぶん)です。Keine Mauer kann ein Volk ewig trennen. (一つの国民を永遠に隔てることのできる壁などない)と刻まれています。家宝にしようと思いつつ、いつもその辺に置きっぱなし。

Chronik der Mauer (ドイツ語です) ← 壁年表です。

Berliner Mauer Online (ドイツ語です) ← 壁についての記述いろいろ。

ベルリンの壁崩壊(ウィキペディア) ← リンクするほどでもないのですが、分かりやすいので。

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 余談です:上のコインの裏に40 Jahre Bundesrepublik Deutschland (ドイツ連邦共和国40周年)と刻まれています。1949年に東西ドイツが成立したんですよね。先日、ブログで知り合いになった方と某大手予備校Yゼミの名物先生のことで盛り上がってしまいました。世界史のY村先生。語りが非常に面白く、ダジャレのオンパレード。しかも温厚なお人柄で大人気でした。世界史ってこんなに面白い科目なんだ、ということをあの先生の講義で知りました。かなり長い間Yゼミで教鞭を執っておられたとのことなので、あの先生の講義を受けた方、いらっしゃるんじゃないでしょうか?「1949年東西ドイツ成立=ボク(4は「フォーだから「ボ」とも読ませる)の東西ドイツ」というのが今でも頭に残っていて、何かあるたびに思い出します。

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2007年11月 8日 (木)

ドイツのコーヒー その3 (Melitta のペーパーフィルター)

 「メリタ」のペーパーフィルターって日本でも有名ですよね。ご存じの方も多いと思いますが、実はこれ、ドイツの主婦が発明したお品なのでした~。すごい!

 1908年のことでした。当時、コーヒーは熱湯に粉を入れ、トルコ・コーヒーのように粉を沈殿させて飲んでいたんだそうです。でなければ粉を煮出して茶漉しで漉して飲んだのだとか。でもね、すぐに目詰まりしてうまく漉せなかったんだそうです。沈殿物のないコーヒーを家族に飲ませてあげたいとの思いからフィルターを考案したのは、ドレスデンの主婦 Melitta Bentz(メリ(ッ)タ・ベンツ)。彼女が使ったのは底に穴を開けた保存用の缶と、長男のノートについている吸い取り紙でした。そういえば昔は便箋などには必ず、万年筆のインクを吸い取るための吸い取り紙がついていましたよね。あれを使ったんだそうですよ~。その後、改良を重ねて特許を取得したのが下のフィルターだそうです↓

1908年のフィルター ← 穴が開いている所にろ紙をのっける簡単な構造ですね。

 メリタ・ベンツとフーゴ・ベンツ夫妻は同年に会社を設立。さらに改良を重ねて翌年にはライプチヒの見本市に出品。やがて画期的なコーヒーフィルターが評判となり、生産が追いつかないほど注文が殺到したんだそうです。

1932年のフィルター ← 現在のものに近づいてきました。ろ紙をフィルターにのせ、入れ子のようになっている金属の器でぎゅっと押さえてセットしたんだそうです。

1936年のフィルター ← 現在のものと同じですね。このとき、扇形のペーパーフィルターが開発されたんだそうですよ~~。

 家庭でも美味しいコーヒーを飲めるようにしたい!という思いで研究を続けた同社は1962年、挽いたコーヒーを真空パックにして販売する方法を考案。今でこそコーヒーの真空パックは当たり前ですが、これを始めたのがメリタだってことは知りませんでした~。

日本のメリタのHPにも歴史が載ってました

 ・・・やっぱり「必要は発明の母」なんですね。上の内容は、ドイツのメリタのHP、日本のHP、新聞記事Made in Germanyという私の愛読書を参考にしました♪

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2007年11月 3日 (土)

オランダ映画「ブラックブック」観ました

Blackbook_2 コーヒーの話その3を書こうと思ったのですが、前から観たいと思っていた「ブラックブック」を昨日借りてきてしまったので、そのことをちょこっとだけ。本当は劇場で見たかったのですが、時間がなくて行けなかったのです・・・。公開はとっくの前に終わってしまいましたので、今さらご紹介するのもナンなのですが、せっかくですので少しだけ。

<簡単なあらすじ>
 終戦直前の1944年、ナチス占領下のオランダ。美貌のユダヤ人歌手ラヘル・シュタインはナチスから逃れるため、謎の人物の手引きで家族やその他の裕福なユダヤ人たちとともに南へ逃げようとします。ところが罠にはまり、ラヘル以外は全員殺害され、身につけていた財産はすべて奪われてしまいます。一人逃げ延びたラヘルは髪をブロンドに染め、エリスという名でレジスタンスのスパイとして生きる道を選びます。彼女に与えられた任務は、その美貌でナチスの将校ムンツェ大尉に近づき、捕らわれている仲間を助け出すことでした。ところがムンツェの人柄に触れ、エリス(ラヘル)は彼を利用するどころか、逆に惹かれてしまいます(ミイラ取りがミイラに)。一方、エリスが仕掛けた盗聴器で秘密を聞き出し、仲間を救い出そうとするレジスタンス側の計画はフランケン中尉らに見抜かれており、囚われていた仲間は全員射殺されてしまいました。エリスはナチス側に寝返ったとレジスタンス側からも疑われ、濡れ衣を着せられることになります。そしてムンツェも陰謀によって職を追われ、死刑を宣告されてしまうのでした。
 そして終戦。ある人物から「黒い本(ブラックブック)」を入手したエリスは、本当の黒幕が誰なのかを知るのです…

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 ↑すみません、この書き方じゃ簡単すぎてよく分かりませんよね。詳しくはコチラに書いてあります。私はドイツかぶれなので、ドイツ関連のことを書かせていただきますね。

 ムンツェ大尉(Müntze なので、どちらかというと「ミュンツェ」かも)を演じたのが、「善き人のためのソナタ」で劇作家ドライマンを演じた Sebastian Koch (ゼバスティアン・コッホ)。私、この人好きなんです・・・ ・・・好きなんですが、ドライマンのほうが合っていて素敵だったように思うのは私だけでしょうか?ドライマンの役柄は、全身苦悩に満ちた感じでしたよね。苦悩が服着て歩いているような雰囲気が非常に合っていたように思えるのですが、今回のムンツェ大尉は何となく深みも渋みもないような・・・。諜報部の大尉ということなのですが、あまりに無防備でお気楽。あ、でもキレイで透け透け衣装を着たお色気全開(失礼)のお姉さんを前にしたら、男性ってみんなそうなってしまうのだろうか・・・。コッホ氏、以前よりお腹のあたりが少しお太りになられたような気もします。

 終戦直後、恥も外聞もなく連合国側にすり寄るカウトナー将軍を演じたのは、「ヒトラー最期の12日間」でシェンク教授を演じた Christian  Berkel (クリスティアン・ベルケル)。この人が悪役を演じるのを初めて見たような気がします。今まで格好のいい役ばかり演じてきたせいか、今回も「最後には善い人になってくれるんじゃないか」などと思わせてしまう何かがあるような。悪役を演じるのは難しい、ということを実感。

 主役を演じた女優さん、とっても綺麗でした。以前、この映画をご覧になった方が「バーホーベン監督は女優を美しく撮るのが上手い」と書いていらっしゃいましたが、私も同感です。監督はハリウッドに嫌気がさして母国に帰った、という記事を読んだのですが、それでもこの映画はハリウッド映画的だな~と思いました。テンポが早く、意表をつく展開が続くので最後まで飽きずに見られます。が、登場人物の心の揺れなどにはあまり触れていなかったので、「あれ?どうしてこうすぐに気持ちが変わっちゃうの?」となることも・・・。

 オランダ映画ですが、ドイツ人が多数登場するため、3分の1くらいはドイツだったような・・・。それ以外はオランダ語なのですが、ご存じのようにオランダ語はドイツ語によく似ているため、結構分かってしまったりします。

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2007年11月 2日 (金)

ドイツのコーヒー その2 (フリードリヒ大王の時代)

 そもそも人間がコーヒーを飲むようになったのっていつからなんだろう?と、ソボクな疑問が湧いてきたので、またまた検索したところ、面白いサイトを見つけてしまいました。「全日本コーヒー協会」のサイトなので信頼できると思います。

コーヒー年表 (全日本コーヒー協会のHPから)

 これによると、コーヒーがドイツ(プロイセンのことかな?ハンザ都市でもコーヒーの交易が始まった、と聞きましたが)に伝わったのは 1670年ごろとなっています。昨日ご紹介したコーヒー展示会のサイト(コチラ)では、「ベルリンに伝わったのが1680年ごろ」ということですので、多少誤差はありますが、ほぼ合っていますね。

 コーヒーは当初、富裕層にのみ許されていた贅沢だったそうです。ところが18世紀に入り、その消費量は拡大の一途をたどります。1734年にはバッハが「コーヒー・カンタータ」を発表、自ら指揮をしてカフェで披露したんだそうな。よっぽど好きだったんでしょうね♪ フリードリヒ大王(1712~1786)統治下のプロイセンではコーヒー豆の輸入が増えるにつれて貿易不均衡が心配されるようになったため、大王は1777年、コーヒー豆に高い関税を課し、輸入を抑えようとします。さらに1781年には豆の焙煎を国が独占するようになり、生の豆の販売を禁止したそうです。展示会サイトによりますと、隠れて焙煎する者を見つけるため、大王が導入したのが「Kaffeeriecher」。直訳すると「コーヒーの香りを嗅ぐ人」。あちこちでくんくんひくひく。コーヒーを焙煎する匂いを嗅ぎつけると、その人物を厳しく罰したんだそうです。何となく笑える話ですな。この「くんくんひくひく係」、400名の Invaliden から成ったそうですが、Invaliden は傷病兵という解釈で合っているのかしら。戦場で働けなくても、不法に焙煎する不届き者を見つけることで手柄を立てよ~!ってことかなぁ。 焙煎を禁じるおふれ

 こうした措置により、コーヒーの価格は高騰。庶民は代わりのコーヒーを飲まざるをえなくなりました。「ちぇっ」と思ったでしょうね。いわゆる「代用コーヒー」は、ここで発達したんだそうです~~~。以前、少しだけブログでも書かせていただきましたが、この代用コーヒーは戦時中や旧東ドイツで多く飲まれましたよね。様々な材料で作られていたんだそうですが、有名なのがチコリやタンポポの根っこ、そして麦芽。そのほかにもどんぐりなどの木の実や穀物が試されたんだそうです。本物のコーヒーの消費が代用コーヒーのそれを追い抜いたのは、1950年代に入ってからなんだそうです。1930年代の麦芽コーヒーのポスター カワイイ。

 Kaffeeriecher や高い関税は大王の死後に廃止されたんだそうですが、さすが大王。コーヒーの歴史にも名を残す・・というか、いろいろやってたんですね。Kaffeeriecher はケッサク。

 11月12日追記:フリードリヒ大王は、ジャガイモの栽培を奨励したことでも知られていますよね。結構、強引だったみたいです。どんな風だったかというと・・・ → あむさんのブログへGo! 美味しそうなジャガイモグラタンも食べられますよ~(^m^)

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2007年11月 1日 (木)

ドイツのコーヒー その1 (Eduscho と Tchibo)

 先日、紅茶のことをちょこっと書いた際、コーヒーもついでに検索していましたら、面白いサイトを見つけてしまいました。2002年から2003年までベルリンの博物館で開催されていた「コーヒー展覧会」。ベルリンにお住まいの方はご覧になったかもしれませんね。5年も前で、ちょっと古い話なのですが、内容は古くない(というか、300年もさかのぼる話なので、5年という年月はあんまし関係ない・・・)ので、ご紹介しちゃいますね~。

コーヒー展覧会のサイト

 この展覧会に協力したのは Eduscho というコーヒーの会社。1924年に Eduard Schopf (エードゥアルト・ショップ)という人がブレーメンで興した会社です。Edu と Scho を取って Eduscho なんだそ~です。今頃ナットク、目からウロコ。当初は焙煎したコーヒーを郵便で届けるのが主な業務だったとか。その後、店頭でのコーヒー販売にも着手。Wiki によると、同社は80年代から90年代にかけて、各地のパン屋さんと提携してコーヒーを販売する事業を展開したとのこと。お客さんが店頭でパンと一緒にコーヒーを飲めるというアイディアです。私が驚いたのは、1997年にTchibo (チボー)社の傘下に入ってしまったということ。知らなかったのは私だけ?ブランド名は残してあるということですが、最近のドイツ・コーヒー事情に疎くて知りませんでした。

 このTchibo の店は、コーヒーの挽き売りや立ち飲みで有名でしたよね。日本のドトール創業者がチボーにヒントを得たということは、よく知られています。日本人は、おそばの「立ち食い」はしますが(注:さすがに私はしたことない~)、コーヒーの「立ち飲み」はまだまだしなかった時代でしたよね。(ドトールのHPにも載っていました → コチラ)もちろんスタバなどもなく、コーヒーを飲みたくなったら「喫茶店(サ店・・・死語の世界)」とか「珈琲店」などへ行くのが普通だったのでありました…。

 話はそれましたが、Tschibo 社の歴史はEduscho よりは新しく、1949年に Max Herz (マックス・ヘルツ)という人と Carl Tchilling-Hiryan (読み方分からないのです・・・。外国の名前かしら。カール・チリング-何とか)という人がハンブルクで興したのが始まり。Tchilling の Tchi と、コーヒー豆 Bohnen の Bo をつけて、Tchibo だそ~です。こちらも初耳、目からウロコ。同社も焙煎したコーヒーの郵送から始めたそうです。その後、各地に販売店を出すようになって、試飲サービス(Probe-Ausschank)が好評を博したとのこと。

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 ドイツのコーヒー、あまりに奥が深くてちょっとやそっとじゃ理解できなさそう・・・。何回かに分けてちょこちょこ書かせてくださいませ。

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