カテゴリー「ドイツ史がらみのこと」の記事

2007年12月 9日 (日)

ナチスの偽札

 今朝、日経の朝刊を読んでいましたら、「ナチスの偽札 加担を証言」という記事が目に飛び込んできたんです。先日、少しだけご紹介したドイツ映画「ヒトラーの贋札」を見たいと思っていたこともあり、興味を持って読みました。

以下、日本経済新聞2007年12月9日の記事の要約です:

 スロバキア生まれのユダヤ人アドルフ・ブルガー氏は印刷工でした。第二次世界大戦で妻ととも拘束され、アウシュヴィッツに送られてしまいます。捕らえられたユダヤ人たちが貨物列車で輸送され、到着したその駅でガス室送りと強制労働送りに選別されたことはよく知られていますが、ブルガー氏もその光景を目の当たりにしたそうです。印刷工だったブルガー氏は1年半後にザクセンハウゼン収容所に移され、紙幣の偽造を命じられたとのこと。「ベルンハルト作戦」のためです。終戦とともにブルガー氏は解放されますが、収容所で妻が殺されたのは自分のせいだとの自責の念にかられ、心の整理に40年を要したとのこと。その後、ブルガー氏は語り部として当時の経験を人々に語る活動を始めたそうです。敗戦直前にナチスがオーストリアの湖に大量の偽ポンド札を沈めたそうですが、それは1959年に発見され、2000年に引き揚げ作業が行われたそうです。日経のこの記事によりますと(引用させていただきます)『湖底にあった偽札には、「終わらない戦後」を物語るかのように、鮮明な印刷が残っていた』

●ベルンハルト作戦

(以下、日経の記事から引用させていただきます)
『ナチス・ドイツが敵国だった英国や米国経済に打撃を与えるため実行した紙幣の偽造作戦。指揮を執ったナチス親衛隊(SS)少佐、ベルンハルト・クリューガーの名からこう呼ばれた。ベルリン郊外のザクセンハウゼン収容所が舞台となり、総額1億3000万ポンド(現在の価値で推定6千億円以上に相当)を印刷したとされる。偽造作戦に従事させられたブルガーさんの体験は映画「ヒトラーの贋札」になった。』(以上、引用終わり)

映画「ヒトラーの贋札」公式HP

以前もご紹介しましたが、コチラ↑が公式HP。監督は「アナトミー」「アナトミー2」のシュテファン・ルツォヴィツキー。アドルフ・ブルガー役を演じるのは、日本でも隠れた人気者のアウグスト・ディール。見たい、見たいわ、見たすぎる~~

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2007年11月21日 (水)

Karlsbader Oblaten? Karlovaske oplatsky? (カールスバートのオブラ~テン)

 先日、レープクーヘンの台 → オブラート → カールスバートのオブラーテンへと話がつながっていきました(というか、私が勝手につなげております)。久しぶりにカールスバートの「ゴーフル」を思い出し、ちょっと検索してみたところ、次の記事を見つけました。2005年11月の記事なので少し古いのですが、内容が面白いのでご紹介しちゃいます~。「ゴーフル」については一昨日の日記をご覧になってみてくださいね。

Radio Prag の記事 Wem gehören die Karlsbader Oblaten?

 EU内では、伝統ある「ご当地名物」の名称をめぐり、その地で作られたもの以外にご当地の名前を使用することを禁じる動きがあるんだそうです。Dresdner Stollen (ドレスナー・シュトレン)はドレスデンで焼かれたものだけ。Nürnberger Lebkuchen (ニュルンベルガー・レープクーヘン)はニュルンベルクで作られたものだけ。但馬牛は但馬産の牛だけ。宮崎の地鶏は宮崎産の鶏だけ。そんな流れの中、チェコ政府も、チェコのご当地名物をリストアップしたそうです。

 その中の1つが、温泉保養地カルロヴィ・ヴァリ(ドイツ語名カールスバート)の名物、オブラ~テン。チェコ語では Karlovarske oplatky と呼ぶんだそうです。カルロヴィ・ヴァリで作られたものだけが、この名前で呼ぶことができる、との主張です。ところが複雑な事情があったんですね・・・。

 確かにこのお菓子はカルロヴィ・ヴァリが発祥の地なのだそうですが、その製造を手がけていたのはドイツ系住民、すなわちSudetendeutsche (ズデーテン・ドイツ人)だったのだとか。皆様よくご存じだと思いますが、ズデーテンは歴史に翻弄された地方。かつては大勢のドイツ系住民がおりました。以下、ウィキペディアから引用させていただきますと:

ズデーテン地方Sudetenland)は、第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約とサン・ジェルマン条約に従ってチェコスロバキアに割譲された地域。旧オーストリア帝国領の一部で、300万人以上のドイツ人が居住していた。

ドイツでナチスが政権を獲得すると、ズデーテン・ドイツ人党が勢力を拡大した。1938年6月の地方選挙では、ドイツ人地域で9割以上もの得票を得た。こうした中、ナチスの指導者であるヒトラーが併合の意志を強めたため、イギリスの首相ネヴィル・チェンバレンは、二度にわたってヒトラーの説得を試みた。さらに、9月末にミュンヘンで独・伊・英・仏によるミュンヘン会談が開催されたが、ネヴィル・チェンバレンが宥和政策をとってズデーテン併合を容認したため、同地域は10月に併合された。この間、一貫してチェコ政府はズデーテン併合に反対していたが、その国家主権は全く尊重されなかった。また、この併合によって約80万ほどのチェコ人がドイツ領内の少数民族としての立場におかれた。

1945年、ズデーテン地方は再びチェコスロバキア領となり、同地に住む250万人以上のドイツ人がチェコスロバキアの大統領令により国外に追放されることにより、ドイツ人とチェコスロバキア人の混住の問題は解決された。』(以上、引用終わり)

 大戦後にズデーテン地方から追放されたドイツ人の中に、オブラーテン職人も含まれていたとか。彼らは大変な苦労の末、ドイツの国内で再び店を構え、「Karlsbader Oblaten (カールスバートのオブラーテン)」を再び作り始めたんだそうです。ズデーテン・ドイツ人側の言い分は、「これだって立派なカールスバートのオブラーテンだ」。 ・・・分かるような気がします。一方、チェコ側としては、「カールスバート、すなわちカルロヴィ・ヴァリの地名をつけることが許されるのは、やっぱりご当地で作られたもののみ」。

 この記事は2年前に書かれたものなので、その後どのようになったかは分からないのですが、そのうちまた検索をかけてみようと思います。ズデーテン・ドイツ人の問題はとっても複雑で、私なんかが生半可な知識で書いてはいけないテーマです。ただ、オブラーテンの影にこんな歴史があったんだ~と思ってしまいましたので、ご紹介いたしましたm(_ _)m

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2007年11月12日 (月)

Valkyrie (ヴァルキューレ) メイキング

 検索していましたら、たまたま Valkyrie (ヴァルキューレ)のメイキング映像を見つけてしまいました。何日も前に公開されたものらしく、もしかしたら既にご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんね。今さら感もありますが、ご興味のある方はご覧になってみてくださいませ。トム・クルーズ主演、ハリウッドが7月20日のヒトラー暗殺未遂事件を描くということで話題になっている作品です。

Valkyrie Making (ご覧になるには、Quick Time が必要ですが…)

 うーん、どう見ても出演者たちはドイツ人に見えないような気がする・・・。ドイツ人ってもっとジャガイモっぽいというか、黒パンっぽいというか、ビールっぽいというか。「シュタウフェンベルク」じゃなく「スタウフェンバーグ」と発音されているのも気になっちゃう。ブツブツブツ…。ドイツの歴史上の人物が英語を話すのも、何となく違和感が。ブツブツブツ…。

 もっとも、私たち日本人は外国の映画を日本語吹き替え版で楽しんだりもしているわけですから、出演者が何語を話しても構わないはずなのですよね。ドイツ語に対する私の思い入れが単に強すぎるだけなのかも。

 ウィキの引用ばかりで恐縮ですが、シュタウフェンベルクについてはコチラを → シュタウフェンベルク大佐

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2007年11月10日 (土)

Reichskristallnacht (帝国水晶の夜)

 うっかりしておりましたが、昨日は「水晶の夜」事件が起きた日でもありました。ドイツ語では Reichskristallnacht、Kristallnacht、Reichspogromnacht などと呼ぶようです。ウィキペディアから引用させていただきますと:

水晶の夜(すいしょうのよる、独:Kristallnacht) とは、1938年11月9日夜から10日未明にかけてナチス党員・突撃隊がドイツ全土のユダヤ人住宅、商店地域、シナゴーグなどを襲撃、放火した事件である。帝国水晶の夜とも。』

『事件後も警察・消防はドイツ当局から介入を禁じられたため無法状態となり、ナチに賛同した非ユダヤ系国民によるユダヤ人商店・住宅の打ち壊し・強奪にも発展した。破壊され砕け散った窓ガラスが月明かりに照らされて水晶のように輝いたことから水晶の夜(クリスタルナハト)と言われているが、実際には殺害されたユダヤ人のおびただしい血や遺体、壊された建造物の瓦礫等で、現場は悲惨なものだったという。』(引用終わり)

 第二次大戦の映画を見ていますと、この事件が時々出てきます。「水晶の夜」という言葉では出てきませんが、「昨夜、シナゴーグやユダヤ人の商店が焼き討ちされたらしい」という噂話という形であったり、実際に被害を受けた人のセリフが出てきたり。映画を見ている人は、これで時代背景を理解するのだと思います。「Nirgendwo in Afrika (名もなきアフリカの地で)」でも確か、この事件の知らせがアフリカに届く、という形で描かれていたように思います。(記憶がおぼろげ・・・違ったらごめんなさい)

 なお、この11月9日というのは、ドイツにとっては節目となる事件が起きた日なんですね。ウィキペディアからまた引用させていただきますと:
『奇しくもこの11月9日は、ドイツ革命における皇帝ヴィルヘルム2世のオランダ亡命(1919年)、ナチスが起こしたミュンヘン一揆の鎮圧(1923年)、ベルリンの壁崩壊(1989年)の日でもある。事件が収束した翌11月10日は、その反ユダヤ主義がナチズムに影響したとされるマルティン・ルターの誕生日であった。』(引用終わり)

ウィキペディアの引用ばかりで申し訳ないのですが、ドイツ語のこのサイト↓はユダヤ人迫害に関するキーワードが満載。勉強になりますです。と同時に背筋が寒くもなります・・・。もしよろしければご覧になってくださいね → Reichspogrome 1938 (一連のユダヤ人迫害について Wiki より)

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2007年11月 9日 (金)

Der Mauerfall (ベルリンの壁崩壊)

P5070017  1989年11月9日はベルリンの壁が崩壊した日でした。あれから18年も経ったんですね・・・しみじみ。ディーリングルームで株価の乱高下をボーゼンと眺めていたドイツ人ディーラーたちの姿が今でも脳裏に焼きついています。壁の崩壊による大混乱、そして東西ドイツの統一。大変な時期をドイツ人たちはよく乗り越えてきたな、と思います。よくよく考えてみたら、壁の崩壊時に生まれた子供ももう18歳。大学生や社会人になる年頃ですよね。ベルリンの壁も歴史になりつつあるんだなぁ・・・。

写真:以前も載せた画像なのですが、ベルリンの壁崩壊を記念して作られたコイン(たぶん)です。Keine Mauer kann ein Volk ewig trennen. (一つの国民を永遠に隔てることのできる壁などない)と刻まれています。家宝にしようと思いつつ、いつもその辺に置きっぱなし。

Chronik der Mauer (ドイツ語です) ← 壁年表です。

Berliner Mauer Online (ドイツ語です) ← 壁についての記述いろいろ。

ベルリンの壁崩壊(ウィキペディア) ← リンクするほどでもないのですが、分かりやすいので。

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 余談です:上のコインの裏に40 Jahre Bundesrepublik Deutschland (ドイツ連邦共和国40周年)と刻まれています。1949年に東西ドイツが成立したんですよね。先日、ブログで知り合いになった方と某大手予備校Yゼミの名物先生のことで盛り上がってしまいました。世界史のY村先生。語りが非常に面白く、ダジャレのオンパレード。しかも温厚なお人柄で大人気でした。世界史ってこんなに面白い科目なんだ、ということをあの先生の講義で知りました。かなり長い間Yゼミで教鞭を執っておられたとのことなので、あの先生の講義を受けた方、いらっしゃるんじゃないでしょうか?「1949年東西ドイツ成立=ボク(4は「フォーだから「ボ」とも読ませる)の東西ドイツ」というのが今でも頭に残っていて、何かあるたびに思い出します。

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2007年10月 6日 (土)

Westerwaldlied (ヴェスターヴァルトの歌)

 軍歌は全く詳しくないのですが、この歌は知っております。戦争映画によく出てくるのでいつの間にか覚えてしまいました。映画「U・.ボート」や「リリー・マルレーン」でも酔った兵士たちが歌っていたような記憶が・・・。行進曲だけあって威勢がいいメロディです。でも、死の恐怖をお酒で紛らわせようとしている若い兵士たちが歌っているのを見ると、なぜか悲しく聞こえます。YouTube で 「お~どぅーしぇええええなーヴェーーースターヴァルト」のあとに合いの手が入るバージョンも見つけたのですが、その中に大砲をぶっ放すシーンがあったので載せるのは抵抗がありまして・・・。こちら↓は行進しているシーンだけ。

Westerwaldlied (YouTube)

Heute wollen wir marschieren
Einen Neuen Marsch probieren
In dem schönen Westerwald
Ja da pfeift der Wind so kalt

Refrain:
Oh du schöner Westerwald
Über deine Hoehen pfeift der Wind so kalt
Jedoch der kleinste Sonnenschein
Dringt tief ins Herz hinein

Und die Gretel und der Hans
Geh'n des Sonntags gern zum Tanz
Weil das Tanzen Freude macht
Und das Herz im Leibe lacht

Refrain

Ist das Tanzen dann vorbei
Gibt's gewöhlich Keilerei
Und dem Bursch' den das nicht freut
Man sagt der hat kein Schneid

Refrain

 この曲は元々、ヴェスターヴァルト地方(ドイツ中西部)に古くから伝わる歌なのだそうです。この曲を行進曲にアレンジしたのが Joseph Neuhäuser(ヨーゼフ・ノイホイザー、1890-1949)という作曲家だそうです。楽譜が存在しなかったため、この地方出身の女性に歌ってもらい、歌詞とメロディーを書き取ったのだとか。アレンジするにあたり、ノイホイザーはまずこの曲の著作権について調べたそうです。権利を侵害してはいけないと思ったのでしょうね。当時(1930年代)から著作権に敏感だったなんて、さすがドイツ人。手を尽くして調べたそうですが、得られた回答は同じだったとのこと。「非常に古い歌だから、著作権は生きていませんよ」 それを受けて彼は1935年に行進曲にアレンジし、マインツにある音楽関係の出版社に150ライヒスマルクで売却したそうです。第二次大戦中、この曲は兵士の間で大流行りだったとか。「リリー・マルレーン」がヒットする前は、この曲が人気ナンバー1だったそうです。

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2007年9月21日 (金)

Hitler-Witz (ヒトラー・ジョーク) その2

 先日、ちょこっとだけご紹介したヒトラー・ジョーク。これはとっても有名なので、おそらく皆さんご存じとは思います。日本語で読んだことが何度かあったので、見当つけてドイツ語で検索したらすぐ出てきました:

So soll der Arier sein : blond wie Hitler, groß wie Goebbels und schlank wie Göring.

(アーリア人とはかくあるべき。ヒトラーのように金髪で、ゲッベルスのように長身で、ゲーリングのようにスマート。)

 当時の状況からすると、決して笑ってはいけないのですが、でも思わず「うまいっ」と言いたくなるような。ヒトラーは金髪じゃないし、ゲッベルスは小柄だし、ゲーリングは太っちょだし。

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2007年9月18日 (火)

Hitler-Witz (ヒトラー・ジョーク)

 第三帝国については私ったら全くの無知。仕事で出てくるたびに詳しい方に泣きついています(皆様、いつもすみません)。ちゃんと日頃から本などを読んでいればいいものを、本を買い込んでも本棚に入れっぱなし。少しずつでも読まなくちゃ。岩波新書の「ナチ・ドイツと言語 -ヒトラー演説から民衆の悪夢まで-」は面白く読めました。一応ほにゃく者なので、「言葉」は大好きです。この本の中に、「地下の言語」としてヒトラー・ジョークが紹介されていました。第三帝国当時のジョークはとっても有名だということで、ご存じの方も多いと思います。Hitler‐Witz の検索ワードで検索してみました↓この本にも載っているジョークです。

Hitler-Witz (ワーグナー礼賛者として知られるヒトラーが「ニーベルンゲンリング」ならぬ「ニーゲルンゲンリング」を発表することになった、とのジョーク)

Die vier Teile des neuen "Niegelungenringes" werden heißen:
Keingold, Willkür, Niefried und Gettodämmerung.
  
タイトル:
Niebelungenring (ニーベルングの指輪) → Niegelungenring (一度も成功しなかった指輪)
  
4部作の内訳:
Das Rheingold (ラインの黄金) → Keingold (黄金ナシ)
Die Walküre (ワルキューレ) → Willkür (横暴、恣意)
Siegfried (ジークフリート) → Niefried (平和にあらず)
Götterdämmerung (神々の黄昏) → Gettodämmerung (ゲットーの黄昏)
 
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 なかなかキツいジョークですね。思わず唸ってしまいました。既にご存じの方、すみません。人は抑圧されればされるほど、風刺のセンスに磨きがかかるんですね。

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2007年9月17日 (月)

RAF (ドイツ赤軍) その2

 先日、ドイツの秋について、ちょこっとだけ書いたのですが(Deutscher Herbst (ドイツの秋))、その後もネットで調べ物をしていますと、ちょくちょくそれに関連する記事を見かけます。当時(1977年)からちょうど30年という節目であることも大きいのでしょうね。

 いつ書かれたものか分からないのですが、Stern 誌の記事を見つけました。「30年前の“ドイツの秋”で・・・云々」と書かれていますので、今年の記事でしょうね。RAF(ドイツ赤軍)の元メンバーがドキュメンタリー番組の中で証言したそうです。メンバーは当時のヘルムート・シュミット首相や、ゲンシャー外相もターゲットにしていたと。もっとも、警護がかなり厳しくて実行には至らなかったとのこと。ゲンシャーさんの名前を耳にする(目にする?)のは久しぶり。

RAF hatte Schmidt und Genscher im Visier

 物心ついたときは(←ドイツ語を学び始めた時期です)既にコール政権になっていたので、実はシュミット首相についてはあまり覚えていないのです。でもゲンシャー外相は長かったので、よ~く覚えております。ドイツ外相=(イコール)ゲンシャーさん、といったイメージでして・・・。

ご参考までに:

ヘルムート・シュミット(社会民主党(SPD))、第5代連邦首相(1974年~1982年)
ヘルムート・コール (キリスト教民主同盟(CDU))、第6代連邦首相(1982年~1998年)
ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャー(自由民主党(FDP) 外相(1974年~1992年)

P9090011 内容とはま~ったく関係ないのですが、うちの壁につかまっていたオンブバッタ。ほかのオスにとられないよう、普段からお目当てのメスにしがみついているんだそうです・・・バッタの世界もタイヘン。彼女をゲットするのに涙ぐましい努力をするんですね・・・(涙)

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2007年8月31日 (金)

Hamster の語源はスラブ系言語だったらしい・・・!

 毎度ハムスターの話題ばかりで失礼いたします。初めて当ブログに来てくださいました方、よろしければハムスター記事 その1ハムスター記事 その2をご覧になってみてくださいね。「ほお袋を持つげっ歯類」が先か、「買いだめ/買い出し」が先かを調べているうちに、ハマってしまいました・・・アホな奴だと思われそう。

 いつもお世話になっている「おそるべきアマチュア」様が検索してくださいました。Etymologie (語源学)のサイト
これによりますと、Hamster はスラブ系言語(ロシア語)由来だとのこと。むむっ スラブ?そう来たか!確かにハムスターってロボロフスキーにしてもしかり、ジャンガリアンにしてもしかり、あっち出身が多いのです。カザフスタンとかシベリアとかモンゴルとか。ナルホド。

 某所でグリム兄弟が編纂した辞書を調べていらした方がいたので、「おお、その手があったか!」と思い、私もネットで検索してみたところ・・・(Nさん、ありがとうございます)

Deutsches Woerterbuch von Jacob und Wilhelm Grimm =Hamster=

 長いので一部だけ。19世紀末から編纂が始まった有名な辞書です。これによると、古いスラブ系の言語 chomĕstar からの借用じゃないか、とありました。やっぱりスラブ系の言葉であったか・・・!なお、この辞典には“borstig wie ein hamster (ハムスターのように怒りっぽい)” “gierig, gefräszig wie ein hamster sein(ハムスターのように欲張りで食いしん坊)”というように使う、という説明も。だけど「買い出し」とか「買いだめ」といった意味は見当たりませんでした。

そして20世紀。1935年に出版されたBrockhaus の独独辞典では、Hamster も hamstern も載っています。ご参考までに:
Hamster:1) ein Nagetier mit Backentaschen: Sinnbild fuer Zusammentragen, Sammeln und Vielfresserei 2) Kornwurm
hamstern:ich hamstere → speichere auf, suche (Lebensmittel oder Geld) einzuheimsen
(Hamster:1)ほお袋を持つげっ歯類。収集したり、ため込んだりする行為や大食いを象徴する言葉 2)穀物につく虫
hamstern:ため込む、(食糧や金を)手に入れようとする

 私の勝手な想像ですが、グリムの辞書が編纂され始めた19世紀の末から1935年までの間に hamstern という言葉が Hamster から派生したんだろうな~と思います。第一次大戦後のインフレの頃かしら・・・?値上がりする前に買っとけ!ということで買いだめしたでしょうから。

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  話は前後しますが、スラブの言葉 chomĕstar がドイツで Hamster になり、この形で英語圏にも伝わったのではないかと思って検索してみたら・・・あった、あった。

Etymology Dictionary =Hamster= 

これ↑によると、1607年に、中高ドイツ語の hamstra から来たとのこと。そしてこのhamstra はロシア語のchomiak とリトアニア語の staras が合わさった chomestoru から来たのかも、と。

コチラのサイトによりますと、1607年に「ドイツのネズミ」ということで、このHamster という言葉が初めて登場したとあります。引用させていただきますね。
Hamster turns up first in English in 1607 as a new name for what had been called the German rat. The name comes from German Hamster, in Middle High German hamastra, which probably was borrowed from Old Church Slavonic chomestoru "hamster" -- the animal is native to southeastern Europe. The Slavic word is perhaps a blend of Russian chomiak and Lithuanian staras, both meaning "hamster."

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 たかがハムスター、されどハムスター。私ったら一人で何やってるんでしょう・・・。アホな奴だと思われてしまいますよね、きっと。昨日今日と仕事もなく、のんびりしながら過ごしました。mit Nickerchen♪ 明日からまたお仕事に入ります。秋は映画祭シーズンでワクワクドキドキ♪

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2007年8月30日 (木)

hamstern (買い占める、買い出しに行く)の語源が知りたい!

 先日のハムスター夫人(買い占め夫人)の続きです。バンケンさんが「ハムスターと買い占め/買い出し問題」を提起してくださいまして、私の頭の中ではいまだにハムちゃんがくるくるくるくるくるくるくる・・・回り続けております。

 日本の検索サイトで「ハムスター」「語源」で検索しますと、いくつかの記述がヒットします。どれも「ハムスター(Hamster)は、ドイツ語のhamstern (買い占める、買い出しに行く)から派生した言葉」となっておりますが、この説が疑問に思えてなりません。やっぱり動物のハムスターが先で、そこからhamstern という言葉が派生したんじゃないかと。ドイツ語の検索サイトでいろいろ検索してみたのですが、語源についてバッチリ記されたサイトは残念ながら見つけられませんでした。

代わりに分かったもの・・・ゴールデンハムスターはシリアに生息していた野生のものが飼いならされたものだそうですが(Wikiによると、初めてイギリスに持ち込まれたのは1938年、ドイツには1948年)、ドイツには昔からもっと大型のハムスターが生息しているということ。その名も Feldhamster 、和名はクロハラハムスター。お腹が黒いからそう呼ばれているみたいです。毛皮目的で乱獲されたり、畑を荒らすということで駆除されたりで、今では数が激減。絶滅の危機に瀕しているそうです。

Feldhamster のサイト (見た目はカワイイですが、気が荒くてペットには不向きらしいです)
ウィキペディアのクロハラハムスター

 「ハムスター」というと、ゴールデンハムスターやジャンガリアンハムスターを連想してしまうのですが、世界にはほかにも多くの種類がいるみたいですね。モルモットの大きさから、子供の手のひらサイズまで。Hamster という言葉は、ほお袋を持つげっ歯類の総称とのことで、ゴールデンが入ってくる以前から存在したようです。先日ご紹介した明治時代の独和辞典(初版の発行年度1896年)にも「ヤマネヅミ(当たらずとも遠からず(笑))」として載っておりましたし、1935年発行のBrockhaus 独独辞典にも「ほお袋を持ったげっ歯類」となっておりました。「買い占め/買い出し」が先か、「ほお袋を持つげっ歯類」が先か。ドイツ語のWiki で Hortung (買い占め)という言葉を調べてみましたら、次のような説明が載っていました:

==============Wiki より引用====================
Unter dem Begriff Hamsterkauf versteht man Kaufvorgänge, die einzig und allein dem Zweck der Hortung, also dem Anlegen von Vorräten, dienen. Hamsterkäufe können oft, müssen aber nicht als massenpsychologische Phänomene auftreten. Heute wird diese Bezeichnung oft abwertend verwendet, da heute insbesondere Lebensmittel ständig verfügbar sind und eine Hortung als unnötig angesehen werden kann. Der Begriff selbst ist auf das Säugetier Hamster zurückzuführen, der Vorräte in den Backentaschen mit sich herumführt.

下線:“Hamsterkauf” (買い出しに行くこと)は、ほお袋に食料をためて動き回る哺乳類のハムスターに由来する。

=============(引用終わり)=====================

 このWiki によると、やっぱり動物のハムスターが先のような気がするんだけどなぁ・・・。Wiki だけで結論付けることはできないのですが、ほかに有力な記述が見つからなくて、よ~わかりません。ゴールデンハムスターが初めてドイツに持ち込まれたのは1948年ということなので、先日ご紹介したポスターのハムスター夫人はゴールデンではないですね。だけど腹黒くないしなぁ・・・どのハムスターだったんでしょう。

・・・それでもやっぱりハムスターってカワイイ。バンケンさん、いろいろ問題提起をしてくださり、ありがとうございます♪

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2007年8月27日 (月)

Hamstern (買いだめ、買い出し)

P8040034 いつも親切にしていただいているバンケンさんが拙宅の記事ハムスター夫人、恥を知りなさいでコメントを寄せてくださいました。昨夜以来、私の頭の中でハムスターが回し車をくるくるくるくるくるくる…

 ご存じの方も多いと思いますが、買い占めや買いだめ、買い出しすることを hamstern といい、電車などで農家まで買い出し(物々交換ですから「買い出し」って言うのかしら)に行くことを Hamsterfahrt と言います。バンケンさんが書いてくださったおかげで興味がわき、検索しちゃいました。

Hamsterfahrt:言葉自体は戦前からあった模様ですが、食料などの調達のために田舎に行く行為が頻繁になったのは終戦直後だそうです。特に都会の食糧事情がひっ迫していたようですね。暖房用の燃料も不足しており、貨物列車から石炭を盗む人もあとを絶たなかったとか。ドイツの冬は寒いしなぁ・・・。洋服や貴重品(宝飾品、高級じゅうたん、マイセンなどの高級食器、カメラ、高級時計など)を持って満員列車に乗り込み、農家へ行ってはジャガイモやバター、ベーコンと取り替えてもらうというタケノコ生活を余儀なくされていたようですね。農家の人たちも足元を見たわけではなかったのでしょうが(いや、足元を見たひともいたかも・・・)交換比率はよくなかったとのこと。皮肉を込めて「Perserteppich im Kuhstall(牛小屋にペルシャじゅうたん)」と陰口をたたいたそうな。「Die Bauern legen ihre Kuhställe mit Perserteppichen aus und essen schon wochentags von Meissner Porzellan(農家の人たちは牛小屋にペルシャじゅうたんを敷き、ウィークデーでもマイセン陶器で食事をしている)」という記述も見つけました。

 もう一つ興味深い言葉を発見。ご存じの方もいらっしゃると思いますが、私は知らなかったのでご紹介しちゃいます。fringsen。ケルンのフリングス大司教から派生した動詞だそうで、独和大辞典には「生きるためにやむを得ず法を犯す」とあります。具体的には、「食糧や石炭がなくなってどうしようもなくなったら、生きながらえるためには盗むのもまたやむなし」という意味のようです。ヨーゼフ・フリングス大司教が1946年の大みそかに行った説教が元になっているのですが、ウィキペディアによると、フリングスは「やむなし」と言ったあとに「しかし多くの場合は行きすぎであり、盗んだものをすみやかに返さない限り神の許しは得られない」と言ったそうなのですが、この部分は無視(!)されてしまい、「困って食糧や暖房用の燃料を盗む」イコール fringsen となってしまった模様。大司教は「そ、そんなつもりで言ったんじゃ・・・」と困ったことでしょう。

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2007年8月12日 (日)

Deutscher Herbst (ドイツの秋)

 先日、RAF(ドイツ赤軍)の映画がクランクイン、という日記を書きました(コチラ)。よくよく考えてみましたら、今年は1977年の Deutscher Herbst (ドイツの秋)からちょうど30年経った節目の年だったんですね。私ったらRAF についてはほとんどと言っていいほど知らないので偉そうなことは言えないのです。だからご紹介だけ。お詳しい方にとっては「今頃何を・・・」という内容です。私が何かウソを書いておりましたら、ご指摘くださいねm(_ _)m。

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Deutscher Herbst (ドイツの秋):1977年の秋に世間を震撼させたテロ事件が相次ぎ、のちに「ドイツの秋」と呼ばれるようになったそうです。RAFは9月にドイツ工業連盟会長シュライヤー氏を誘拐。10月にはルフトハンザ機をハイジャック。ミュンヘンオリンピック襲撃事件の苦い経験から創設された対テロ特殊部隊GSG9(元Grenzschutztruppe9)の強行突入により、人質86名は無事解放されたとのこと。RAFの要求は獄中にあるメンバーの解放でしたが、政府(当時はヘルムート・シュミット首相でした)がそれを断ったためにシュライヤー氏は突入の翌日、他殺体で発見されます。突入の直前、RAFのメンバーが相次いで獄中にて自殺。その中にアンドレアス・バーダーも含まれるとのこと。

なお、RAF の中核メンバーであったアンドレアス・バーダーは「不遇な人々の弁護を引き受ける有能な正義派弁護士」だったとのこと。同じく中心メンバーであったウルリケ・マインホフは「女性ジャーナリストとして雑誌「コンクレート」で健筆をふるう」人物だったそうです(三島憲一著 岩波新書「戦後ドイツ」より)。マインホフは前年の1976年、独房の中で首を吊って自殺しています。

Stern誌の写真1967~1998 ← コメント欄でもご紹介したのですが、Stern誌の記事です。テロ関連の写真が32枚。1977年4月に起こった検事総長ブバック氏殺害事件に関する写真もあります・・・見ていて背筋が寒くなりました。あの頃、日本でもいろいろありましたが、世界的に激動の時代だったんだな~と改めて認識いたしました。

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2007年4月16日 (月)

Lili Marleen リリ~・マルレ~ン (YouTube)

検索していて偶然見つけてしまいました。YouTube の「リリー・マルレーン」。既にご存じの方もいらっしゃるかもしれませんね。特に1番目の画像はちょっと辛いものが・・・。この歌を聴きながら見ていますと後半部分では胸が詰まります。(初めてこのブログに来てくださいました方・・・コチラに過去の記事が→リリー・マルレーン (その1)

見ていて胸が痛みます

ラーレ・アンダーゼン版(画像はありません)

マレーネ・ディートリッヒ版

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2007年4月 4日 (水)

Lili Marleen (リリ~・マルレ~ン) その4

先月、「リリ~・マルレ~ン その4」を書いていて困ってしまいました。サイトによって違う箇所が出てきてしまいまして。どうするべ~と思い、図書館でラーレ・アンダーゼンの自伝を借りて、その部分を見てみることにしました。彼女の自伝だけでは、史実までは分からなかったのですが、本人がそう言っているということでご了承くださいまし。図書館は歩いて5分のところにあります。便利なのだ~。

今日はじめてこちらに遊びに来てくださいました方:
よろしければ、その1その2その3 をご覧になってみてくださいね。

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「リリ~・マルレ~ン」の大ヒットで、歌手ラーレ・アンダーゼンは忙しい日々を送っていました。前線へ慰問に行ったり、各地のコンサートで歌ったり。どこへ行っても兵士たちから熱烈に歓迎されるのでした。でも絶頂の時期は長く続きませんでした。歌詞の内容が問題視されるようになります。ゲッベルスは『前線の兵士たちに里心がつく』として嫌ったとのこと。ラーレ・アンダーゼンはとうとう、イタリアツアーから移動中の列車内でゲシュタポに身柄を拘束されてしまいました。1942年9月のことです。チューリヒでユダヤ系の音楽家たちと親しく交流していたことや、夫がユダヤ人であったことも問題視されたそうです。そのままベルリンへ強制的に送還され、自宅待機を命じられました。

拷問や強制収容所(KZ) 送りを恐れたラーレは夜、睡眠薬(バイエル社が開発した『ベロナール』)を大量に服用。意識不明のところをゲシュタポに発見されます。クアフュルスデンダム (Kurfürstendam)92番地の自宅に救急車が呼ばれました。

ラーレの意識が戻らないうちに、イギリスBBCがニュースを流しました。「『リリー・マルレーン』を歌った歌手が強制収容所内で死亡した」と。この誤報が彼女を救うこととなったようです。ナチスの非道さをアピールするための報道であったわけですが、ドイツ軍兵士の士気低下を恐れたナチスはその報道を否定し、彼女を家に帰しました。

ファスビンダー監督の映画「リリー・マルレーン」ではその後、本人が生存していることを国民に示すために無理やり舞台に登場させます。でも実際は、人前で歌うことは禁じられたままだったようですね。

一方、この歌はマレーネ・ディートリヒが歌ったこともあり、その後も各地で歌い継がれました。48の言語に翻訳され、替え歌やマーチ風にアレンジしたものも登場したそうです(その中でもUボート版の替え歌が有名なんだそうです)。

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サイトによって何が違ったかといいますと、BBCの放送の中身。「ラーレ・アンダーゼンは強制収容所に送られ、そこで死亡した」という内容が流れた、という説と、「ラーレ・アンダーゼンは強制収容所へ送られることを恐れ、それを避けるために自殺した」と報道された、とする説。似ているようでビミョ~に違うので、困ってしまったわけです。史実がどうだったかは分からなかったのですが、自伝によると前者になっていました。

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2007年3月19日 (月)

Pickelhaube (ピッケルハウベ)にビックリ カイゼル髭 追加

私、ミリタリー関係の「ミ」の字も知らない、ということは前から言いまくっていたのですが、またまた新しいことを教わり、ビックリしました。角がついた兵士のヘルメット。ヘルメットといっても皮製だったそうで、小学館の独和辞典では『尖頂(せんちょう)つき軍帽』という訳が当てられています。どっちかというと帽子?なお、郁文堂の独和辞典では『頂にとがった金具のついた黒い革製のヘルメット(19世紀の半ばから第一次大戦にかけてプロイセン及びドイツの軍隊で使用された)』となっています。

Pickelhaube (ピッケルハウベ)

実はコメント欄でちょっと話題になっていたのですが、せっかくなので記事にしちゃいました。AIRSHIP 様がご紹介くださったサイトに詳し~く書いてあります。写真も載っています。華やか。 → コチラ 

P3190003_2言われてみると、歴史の教科書などで見たことがあるような気もしました。「目で見る20世紀」みたいなドイツ語の本が家にありまして、ヒマになるとよくぱらぱらめくっています。でもピッケルハウベを意識して見たことはありませんでした。今日、その本を再び引っ張り出してみましたら… おぉぉ~ 確かにそれっぽい角があちこちに映ってる・・・。メジャ~なものだったのね。この分野にお詳しい方にとっては常識だと思うのですが、私みたいに詳しく知らなかった方もいると信じて載せちゃいます。これってピッケルハウベですよね・・・?

↓これは真ん中あたりにピッケルハウベらしきものをかぶった方がいます(映りが悪いのですが)。それ以外の人の頭についているのは何?大学の角帽みたい・・・皆さんカメラ目線。

P3190005_1

P3190002 3月21日 追記:
コメント欄で教えていただきました。皇帝ヴィルヘルム2世(→)の頭の鷲、着脱可能なんだそうです・・・!このカイザー(カイゼル)の立派なお髭が「カイゼル髭」の語源なんだとか。う~ん、さすがにスゴイ。

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2007年3月14日 (水)

Lili Marleen (リリ~・マルレ~ン)その3

リリ~・マルレ~ンの続きです。今日初めてこのブログに遊びに来てくださいました方、よろしければ過去の記事のその1その2をご参照くださいね。

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ベオグラードに設置された国防軍の放送局は1941年4月から放送を開始したそうです。目的はもちろん、兵士の戦意高揚やプロパガンダを流すこと。内容がよかったのでしょうか、人気番組となり、放送局への投書が相次ぐようになったそうです。そこで関係者は考えました。放送枠を使って前線の兵士の声をふるさとに届けようと。こうして1941年8月18日に「Wir grüßen unsere Hörer(リスナーの皆さんこんにちは)」というコーナーが誕生しました。番組の中で前線の兵士から故郷の家族や恋人に宛てたメッセージが読まれ、番組の最後、10時少し前に「リリー・マルレーン」が流されることになりました。こうしてこの歌は前線の兵士と、故郷で彼の帰りを待つ最愛の人たちとを結ぶ架け橋となったのです。ファスビンダー監督の映画「リリー・マルレーン」でもこのシーンが出てきました。

参考にしたサイトの説明によりますと、南はアフリカから、北はノールカプ(ノルウェーの島にあるヨーロッパ最北端の岬)からもメッセージが届いたそうですよ。その数 12460通に上る日もあったとか。彼らは最愛の人にメッセージを送りながら、一緒に「リリー・マルレーン」が聴けるのを楽しみにしていたとのこと。やがてこの歌は連合国側の兵士たちにも愛されるようになりました。そして夜の10時少し前になると、不思議と砲撃や銃撃の音が鳴り止んだそうです。このことはドイツ兵だけでなくイギリス兵なども書き残しているそうですので、事実だったのでしょう。

作曲家ノルベルト・シュルツェの(たぶん)息子であるシュルツェ・ジュニアはドキュメンタリー映画の中で次のように述べているそうです。
Eine makable Verbrüderung.  Hier zerschießen, verbrennen und vernichten sie sich gegenseitig und singen gleichzeitig dasselbe Lied. (不思議な連帯感だ。戦場で互いに撃ち合い、焼き払い、破壊の限りを尽くしている者たちが同じ歌を歌っている。)

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余談ですが、この「リリー・マルレーン」がベオグラード放送局で流されたのは偶然だったそうです。レコードのストックが少なかったため、ウィーンの放送局からレコードを取り寄せたところ、その中に偶然「Lied eines jungen Wachtpostens (『若き歩哨の歌』・・・最初はそう呼ばれていました)」が入っていたとのこと。ベオグラード放送局の責任者、カール・ハインツ・ライントゲン少尉が1941年の夏ごろに残した報告によりますと、放送時間は日に12時間にのぼり、リリー・マルレーンも日に3度放送されたとか。「『帰営ラッパ(歌詞に出てきます)』はもう十分だろう」と鶴の一声を発し、「リリー・マルレーン」を曲目から外そうとしたそうです。そのとたんブーイングの嵐。このサイトの言葉を借りると eine Flut von Beschwerdebriefen und Beschimpfungen (苦情の手紙や非難の洪水)。既にみんなが愛唱していたんでしょうね。そしてこの曲は再び流されるようになって一件落着とか。

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急いで書いたので、乱文すみません。誤訳や誤認識があったらどうしよう・・・。おかしな箇所がありましたら、教えてくださいね。

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2007年3月11日 (日)

Lili Marleen リリ~・マルレ~ン (その2)

またまたリリ~・マルレ~ンの話題で恐縮です。いろいろ思い出がありまして。ラーレ・アンダーゼン(ラーレ・アンデルセンという表記のほうが一般的かもしれませんが)のコチラと、リリー・マルレーンの歌のofficial page (本当に公式かどうか分からないのですが)を参考にしました。

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先日ご紹介した Lili Marleen の歌詞の作者は詩人の Hans Leip(ハンス・ライプ)。彼は1915年4月、東部戦線に向かう前にベルリンの兵舎 Gardefüsilierkaserne でこれを書いたそうです。(この兵舎についてご存じの方、ひるふぇ・びって。)リリーは彼のガールフレンドですが、マルレーンについては2説あるとのこと。友人の恋人の名前という説と、当時出入りしていた看護師を指すという説。とにかく2人をくっつけて、リリー・マルレーン。作詞者にとっては甲乙つけがたかったのでしょうか。その後の1938年に作曲家 Norbert Schultze (ノルベルト・シュルツェ)がメロディをつけました。

これをレコードに吹き込んだのが歌手ラーレ・アンダーゼンです。吹き込んだ当初は話題にならず、700枚ぽっちしか売れなかったとか。ところがベオグラードに設置された国防軍の放送局で兵士向けに流されたことをきっかけに状況が一変。この放送局ははるかかなたのアフリカまで電波を送っていたとのこと。レコードのストックが少なかったこともあり、「リリー・マルレーン」は日に3度流されたこともあったそうです。そうこうするうちに兵士の間で人気に火がつき、毎晩9時55分に流されることになりました。
(この続きは後日書かせてください。決してもったいぶっているのではなく、時間がなくて。ベオグラード放送局でのエピソードに笑えるお話も・・・)

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先日、ペンディングにしていた歌詞の5番。皆様からいろいろ教えていただきまして、ありがとうございます。英語バージョンを見てみたところ、heben に free が当ててありました(ただ、この英訳はかなり意訳しているようですが。)

Like a dream you free me,
With your lips so hale.

der stille Raum というのはやはり、砲撃が止んだときの、つかの間の「静寂」「沈黙」でしょうか。あるいは夜の静寂かも。で、die Erde Grund は、AIRSHIPさんが教えてくださったように、塹壕を意味するのかなぁと思いました。そんな苦しい状況からまるで夢のように僕を引き上げてくれる(救い出してくれる)のは、僕のことを想ってくれる君のその唇・・といった感じでしょか。結局は、「救いなのは夢に浮かぶ君の唇」ってことだとは思いますが。なお、Dein verliebter Mund ですので、sich verlieben している(夢中になっている)のは彼女のほうですね。なんとな~くイメージは湧くのですが、それを訳すのは難しいなぁ(と言って逃げる・・・)

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余談その1:ネットで検索して読んだのですが、ソ連がドイツ兵の戦意を喪失させるために、「君たち、それぞれの『リリー・マルレーン』の元へ戻りたまえ」みたいなビラを撒いたとか。ホントかな?それを読んだ兵士は皆、戦闘をやめて恋人に会いたくなったでしょうね。恋人がいない兵士は辛さが2倍だったかも。

余談その2:先日、コメント欄で「おそるべきアマチュア様」が教えてくださったのですが、曲をつけたノルベルト・シュルツェさんの祖父エーミール・シュルツェさんは「お雇い外国人」として東京大学医学部で教鞭をとっていたそうです。あの森鴎外(当時は森林太郎)に容赦なく赤点をつける厳しい先生だったそうで・・・

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1939年9月1日のラジオ放送

またまた新書「字幕屋は銀幕の片隅で~」の話です。この中に書かれていたことで、私も「おぉ~」と思ってしまったことが。映画の演出上のお話ですが、どの国にも大多数の人が、「あぁ、このことか」と理解できる共通認識がある、ということ。たとえば日本の場合、玉音放送を流せば、「あぁ、戦争が終わったんだな・・・」と分かりますよね。余計なテロップやナレーションは不要です。ところが日本では常識でも、海外では必ずしも常識ではなかったりします。ですので、この映像を海外に流す場合は何らかの形で補足する必要がある、というお話でした。うん、確かにそうだ。この本にあるように、「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・・」を直訳しても、外国の人にとっては「???」かもしれません。

同じようなことがドイツ映画でもあるな、と思い出しました。戦争関係にお詳しい方にとっては常識なのだと思いますが↓ヒトラーの演説です。

Seit fünf Uhr fünfundvierzig wird zurückgeschossen.  Und von jetzt ab wird Bombe mit Bombe vergolten.  Wer mit Gift kämpft, wird mit Giftgas bekämpft.

ドイツ軍によるポーランド侵攻(無知な私が説明するとボロが出ますので、こちらをご覧ください。「5時45分より・・・」のくだりです。私が何か違ったことを書いていたり、誤認識があったりしましたら、教えてくださいね。)

ヒトラーの演説がラジオで流れ、これを聞いた人が「とうとう恐れていたことが起きた・・・。戦争(第二次大戦)がいよいよ始まってしまう・・・」と理解する、といったシーンを何回か見たことがありました。これはドイツ人の共通認識なのだと思いますが、日本人ですと、みんながみんなピンと来るとは限りませんよね。ですので、前後のセリフにさりげなくその旨を盛り込まないと内容が正しく伝わらないことも・・・。

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映画の中で初めてこれを聞いたときは驚きました。 Bombe mit Bombe、Gift mit Giftgas (爆弾には爆弾で報復し、毒ガスには毒ガスで応戦する)、といったくだり。侵攻を正当化する演説なのですが・・・

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2007年3月 6日 (火)

Lili Marleen (リリ~・マルレ~ン) その1

以前、鬼才ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督について少しだけ書かせていただきました。監督の作品「リリー・マルレーン」では、とても感動したのを覚えております。特にあの歌。無謀にも下に拙訳を書き出してしまいます・・・間違った解釈に気づかれましたら、教えてくださいね。ヘタクソ訳だとは分かっているのですが、こうしてああでもない、こうでもないと苦労しながら訳している時間が好きなんです、ホント・・・。翻訳をなさる方は皆様同じだと思うのですが。

色々な方々がこの歌に歌詞をつけてこられましたが、下の拙訳は「ほぼそのまま訳」です。ただ、ドイツ語と日本語の構造が違うため、倒置させている箇所や意訳しちゃった箇所はありますが・・・。実は5番 aus....hebt mich wie im Traume dein verliebter Mund がよく分かりません。これで「翻訳やってま~す♪」と言っているのだからお恥ずかしい・・・

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(←メロディはこちらで聴けます♪)

1. Vor der Kaserne
Vor dem großen Tor
Stand eine Laterne
Und steht sie noch davor
So woll'n wir uns da wieder seh'n
Bei der Laterne wollen wir steh'n
Wie einst Lili Marleen.

兵舎の大きな門の前
今も街灯が立っている
その下でまた会おうね
あの街灯の下に2人で立とう
昔のように リリー・マルレーン

2. Unsere beide Schatten
Sah'n wie einer aus
Daß wir so lieb uns hatten
Das sah man gleich daraus
Und alle Leute soll'n es seh'n
Wenn wir bei der Laterne steh'n
Wie einst Lili Marleen.

2人の影が重なり1つの影に
僕ら
が愛し合ってたって
見れば誰にも分かること
みんなが見たって構わない
街灯の下に2人で立とう
昔のように リリー・マルレーン

3. Schon rief der Posten,
Sie blasen Zapfenstreich
Das kann drei Tage kosten
Kam'rad, ich komm sogleich
Da sagten wir auf Wiedersehen
Wie gerne wollt ich mit dir geh'n
Mit dir Lili Marleen.

歩哨の呼び声
鳴り響く帰営ラッパ
遅れりゃ3日の営倉入り
「戦友よ いま戻る!」
これが2人の別れの合図
本当は君と一緒にいたかった
君と リリー・マルレーン

4. Deine Schritte kennt sie,
Deinen zieren Gang
Alle Abend brennt sie,
Doch mich vergaß sie lang
Und sollte mir ein Leids gescheh'n
Wer wird bei der Laterne stehen
Mit dir Lili Marleen?

街灯はすべてを知っている
君がそこに通うのを
毎晩 明かりは灯るけど
僕はそこに立てなくなった
僕の身に何かが起きたとき
君は誰とそこに立つ
君は リリー・マルレーン

5. Aus dem stillen Raume,
Aus der Erde Grund
Hebt mich wie im Traume
Dein verliebter Mund
Wenn sich die späten Nebel drehn
Werd' ich bei der Laterne steh'n
Wie einst Lili Marleen

静寂の中から
地の底から
夢のように浮かぶのは
恋をする君の唇
夜霧があたりを包んだら
僕は街灯の下にたたずもう
昔のように リリー・マルレーン

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Lili Marleen の様々なバージョンが聴けます

実はこの曲の題、「リリー」と「マルレーン」という2人の女性なんだそうです。おいおい、一人に絞れよ~。この歌が作られた経緯や、戦場で広まる経緯はまた改めて書かせてください。落ち着いて書かないとウソを書いてしまいそう。また後日ゆっくり・・・

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2007年2月13日 (火)

Feldküche (野戦炊具、またの名を Gulaschkanone)

古い話ですが、グーラッシュを調べているうちに、Gulaschkanone (直訳しますと:グーラッシュの大砲)という言葉に行き着き、「おっ」と思って記事にしたことがありました。兵士たちの食事を作る設備ですよね。一般的にはFeldküche と言うんだそうです。

Gulaschkanone (フィ~ルドキッチン)(過去の記事です)

今回、とある作品でこの設備を発見。ひょっとしてコレかな↓?

P2120034

全体が映っていないのが残念。ドイツ語の Wikipedia で改めてFeldküche を調べてみました。ドイツでこういった設備を作ったのは、圧力鍋で有名なFissler (フィスラー)社。会社がフィスラー家によって設立されたのは1845年。そして1892年に同社が可動式の Feldküche を“発明”した、とHP に書いてありました。この写真がフィスラー社製のものなのかどうか分からないのですが、これに近い形だったのかしら・・・。

なお、ウィキペディアの記事によりますと、グーラッシュやシチューを煮込んだだけでなく、兵士のシャツを煮沸するのにも利用したとか・・・。たしかにドイツでは一般家庭でも洗濯物を熱湯で洗濯しますし、ノミやダニも一網打尽!でしょうが、食事と同じ鍋だなんて・・・。ま、いっか。殺菌消毒しちゃえば大丈夫。 なお、現代では災害時や大きな催しなどで大活躍だそうです。

午後追記:イメージ検索で見つけてしまいました。1916年製のようです。鍋の中身はなんでしょう? Gulaschkanone (画像です) 

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ドレスデン爆撃 (その2)

62年前の今日(1945年2月13日)は、ドレスデン爆撃の日でした。

ドレスデン爆撃 (過去の記事です)

Frauenkirche (聖母教会)も再建され、爆撃当時の姿を伝えるものは少しずつ減ってきているのかもしれません。それでも、当時の記憶を風化させてはいけない、と考える人たちもいるようです↓

ドレスデン、運命の日 (公式HP) 

監督:Roland Suso Richter (ローラント・ズゾ・リヒター)

監督来日インタビュー記事

公式 HP は作られたばかりでして、まだトレーラーや簡単なあらすじしか載っていないのですが、ご紹介だけでもと思いまして。映画につきましては、また後日あらためて書かせてくださいね。

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2007年2月 8日 (木)

Führerbunker(フューラーブンカー)

先日、「Der Untergang (ヒトラー 最期の12日間)」についてちょこっと書かせていただきましたので、Führerbunker (フューラーブンカー)に関する施設のご紹介をば。

私はまったくの素人なので、ご紹介だけですみません。万が一間違ったことを書いておりましたら、教えてくださいね。昨年の話ですが、下の施設が仕事で出てまいりました。ベルリンにある資料館(?)のようです。以前、kio さんもブログで書いていらっしゃいました。ヒトラーが最期の12日間を過ごした地下壕のほかにも、当時のベルリンには数多くの防空壕が存在したそうです。Bunker という言葉は戦争の後期に出てきたもので、初期はLuftschutzkeller と呼んでいた、というのを聞いたことがあるのですが、ホントでしょか?お詳しい方、お教えください。

★私みたいな素人が書くのはお恥ずかしいのですが、ご存じない方もいらっしゃるかと思いますので・・・「フューラーブンカー」ってナンジャラホイ?
→ 旧首相官邸地下にあった地下壕につなげる形でヒトラーが作らせた地下壕のことだそうです。「ヒトラー 最期の12日間」原作本の邦訳では、「総統地下要塞」という訳が使われていました。イギリスの最新兵器の爆撃にも耐えられるよう、天井は分厚いコンクリート製だったそうです。さらに鋼鉄製のはりを狭い間隔で渡し、強度をUPさせていたとか。ヒトラーは戦争末期、ここにこもっていました。そして最後に自殺したと言われています・・・。

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↓上述の在ベルリン資料館のHPです。一部再現され、見学できるそうです。ドイツ語のほか、英語のバージョンもあります。よろしければご覧になってみてください。
Berliner Unterwelten e.V. ホームページ

この施設が公開しているフューラーブンカーのインフォ。
フューラーブンカーの説明(ドイツ語PDFファイルです)

ドイツ語ウィキペディアに載っていた、フューラーブンカーの見取り図。碁盤目のようですね。ものすごく狭く、圧迫感があったとか。
フューラーブンカー 見取り図

個人の方が作ったサイトのようなのですが、写真が豊富でしたのでご紹介。Fahrerbunker (運転手用の地下壕)では、壁画も見つかったそうです。その写真も載っています。)
フューラーブンカー跡、Fahrerbunker(個人の方のサイトのようです)

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2007年2月 4日 (日)

ドーデ「最後の授業」が消えたわけ

Pa090007_1以前、アルザス食器を売るお店の閉店セールで、思わずミニ・クグロフ型を10個も買っちゃった記事を書かせていただきました。某SNS でもそのことに触れましたら、アルザス→アルザス・ロレーヌ→普仏戦争でドイツ領エルザス・ロートリンゲンに→「最後の授業」という風に話が飛び、ネットで検索してみました。すると「え?知らなかった・・・!」とびっくりすることが。それ以来、関連本を読みたい、読みたいと思いつつなかなか読めずにおりましたが・・・

P1010023_2消えた「最後の授業」 
府川源一郎 著、大修館書店 

昨日の夜中、ようやく読むことができました。もしかして「何をいまさら~常識だよ~」と思われる方も多いかもしれません。偉そうにブログに書いちゃったりして、無知をさらけだすことになるかも・・・と少し躊躇したのですが、私みたいに知らなかった方もいらっしゃるかもしれませんので、書いちゃいました。ご存じの方は、スル~してくださいね。(前置き長くてスミマセン)

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フランス人作家ドーデの「最後の授業」は1927年(昭和2年)に初めて国語の教科書に掲載されて以来、途中15年ほど空白の期間はあるものの、1986年(昭和61年)まで多くの教科書に掲載されていたそうです。私もよく覚えています。その当時、「へ~ 『明日からあなたたちは日本語を話してはいけません』と言われたら悲しいな。ドイツってひどいことをするんだな~」と単純に思ったのを記憶しています。86年までということは、現在20代の方は習っていないことになりますね。

<「最後の授業」>
「月曜物語」という短編集の中の1編だそうで、もともとは毎週月曜日、新聞に連載されていたものだそうです。「最後の授業」のお話が掲載されたのは1872年5月13日。ちなみに普仏戦争でパリが陥落したのは1871年1月28日、フランクフルトにて平和条約が締結されたのが1871年5月10日だそうです。ドイツ領となるに伴い、授業でもフランス語ではなく、ドイツ語を話さなくてはならなくなる。フランス語による最後の授業。村人までが教室に来て神妙な顔つきで授業を聞いています。最後にアメル先生は、フランス語がいかに美しい言葉であるかを切々と説き、「ある民族が奴隷になっても、その国語を保っている限りは牢獄の鍵を握っているようなもの。フランス語を忘れてはならない」と話して聞かせる。当時の私は素直に感動しました。

<日本における「最後の授業」>
同書の解説によりますと、ドーデの作品を最初に日本に紹介したのは森鴎外(!)だそうです。時は1889年、ドイツ語からの重訳だったそうな。「最後の授業」は1902年に「をさな心」という邦題で紅葉山人(尾崎紅葉)と羝夢生の共訳として出版されたんだそうです。その後も様々な人が翻訳を手がけてきました。面白いのは読売新聞に載ったバージョン。題名が「最終のお稽古」で、「おしまひのおけいこ」とのルビが。

<アルザスの人々は何語を話す?>
「明日からフランス語を話せなくなる」のが屈辱的であるというのは、母国語がフランス語であるのが前提ですよね。母国語が話せなくなるなんて、なんて悲しい・・!が、同書によりますと、「アルザスで話されている言葉はアルザス語。ドイツ語の方言形態であり、厳密にはアレマン語とライン=フランク語というゲルマン方言」なんだそうです。樅の木さんも以前ブログに書いておられましたが、アルザス地方ではドイツ語が通じるんですよね。私も旅行で訪れた際、「おっ通じた!すげ~」と思ったことがありました。

著者はここで書いておられます。「こうしたアルザスにおけるアルザス語の位置を見ていくと、アメル先生の言葉はフランス中央の側からの発言であって、アルザスの人々の意識の深層にまでは十分に触れていないことが分かるだろう」 フランス語はアメル先生の言葉なのであり、アルザスの人々の言葉はやはりアルザス語。この物語は、あくまでもパリに住む読者に向けたもの。普仏戦争敗北により失ったものに対する思い、プロイセンに対する複雑な感情が背景にあるのだと。う~ん。子供の頃、素直に感動したお話も、大人になってそうした事実を知った上で読んでみると感動が薄れちゃう。ナショナリズムのにおいがしますね。

<消えた「最後の授業」>
1970年年代の後半から1980年代の前半にかけて、この「最後の授業」は「国民教材」化したそうですが、それに対して異論も出てくるようになったそうです。そこにあるのはやはり、アルザス人にとってフランス語もまた自国語ではない、という事実。そうこうするうちに、「最後の授業」は国語の教科書から姿を消してしまったそうです。(ただし、このお話をアルザス民衆たちの「国語愛」の物語だと勝手に誤読し、過度に肩入れしてきたのは日本の読み手たちであった、いう解説も載っています。この物語が美しいお話であることには変わりない、ということでしょうね。確かに悪く言ってはドーデさんが気の毒。)

著者の先生はさらに、日本の国語教育についても戦前戦後に分けて詳しく掘り下げておられます。私は国語が苦手だった(実は今でも)ので、この部分は触れずにおこうっと。アホがばれちゃう。

消えた「最後の授業」(著者のHPのようです)

「最後の授業」について(ウィキペディア)

普仏戦争(ウィキペディア)

Deutsch-Französischer Krieg (Wikipedia)

オットー・フォン・ビスマルク(ウィキペディア)

<おまけ>
長くなってスミマセン。アルザス銘菓「クグロフ」は、今映画で話題のマリー・アントワネットのお気に入りだった、ということで有名ですよね。一方、鉄血宰相ビスマルクの好物は、Baumkuchenspitzen (バウムクーヘンを小さく切り、チョコレートがけしたもの)だったんだそうな。先日ご紹介したユーハイムのHPに書かれておりました。あの強面(こわもて)で甘いもの好き。鋭い眼光でメイドさんに、「午後のお茶にバウムクーヘン・シュピッツェンを!」と命じていたのかしら・・・。そう考えるとおかしい^^

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2007年2月 1日 (木)

Kielholen (船乗りの刑罰) ひゃ~

昨日、今日と東京はとても穏やかでした。「わ~い♪ 布団を干そうっと」と思い、朝から布団を干しました。「げっ 干しっぱなしだったっ」と気づいたのは夕方5時半過ぎ。あーあ、今日はひんやりしっとりした布団で眠れます(泣)風邪がぶりかえしそう。

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仕事で海賊が出てきました。ドラマの舞台はハンザ商人が活躍するハンブルク、時は14世紀。Patrizier (都市貴族) たちはおかっぱ頭(ヅラです)。修道院の修道僧は、頭頂部を剃った河童カット。主人公が海賊になって大暴れ。何ヶ月か先に DVD で発売されるのだと思います。また後日、ご紹介させてください・・。

で、kielholen という刑罰が出てきました。海賊船ではなく、いちおう商船なのですが、乗組員は海賊っぽい荒くれ者。イケメン主人公が船長に嫌がらせをされます。船長が命じた刑罰が kielholen でした。キールホーレンってナンジャラホイ?海の用語はまったく知らず、調べましたところ・・・

・・・語源はオランダ語だそうで、英語ではkeelhaul と言うんだそうです。独和辞典には「綱をつけて船底をくぐらせる刑罰」と出ておりました。体に綱を巻きつけ、海に投げ込みます。なぜか綱は船底の下から船の向こう側に渡されております。どうやって渡したんだろ?で、反対側から綱を思い切り引っ張ると、体は船の底をこするようにして引っ張られ、反対側から引き上げられるという仕組み。船底には貝(フジツボ?)がたくさんついていたそうで、それにこすれて傷だらけ血だらけ(泣)になるそうです・・・。運が悪ければ溺死、死ななくても傷口が化膿して敗血症を起こし、生死の境をさまよう船員も・・・

19世紀くらいまでこの刑罰は続いたそうです。しぇーーー野蛮。お詳しい方もいらっしゃると思うのですが、私はこういった分野に本当に疎く、初めて知りました。知らないのは私だけかしら。だとしたらすみません。

P1300024

またまた「かわいくなくてカワイイ」系のドイツ菓子。銀紙でくるんであるだけなのですが、センスがないところが妙に懐かしい・・・。これも先日のブーちゃんチョコと一緒にソニ●ラで購入いたしました。

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2007年1月10日 (水)

習志野俘虜収容所 ある日のお献立 (その5)

この記事は昨年9月に書いていたのですが、もう少し調べよ~と思っているうちに、ついつい塩漬けにしてしまいました。以前UPしたお献立の記事の「ケーニヒスベルガー・クロプセ」を作ってくださった方がコメントしてくださいました。それについつい気をよくした私。「おお、そうだ、書きかけの記事があった!」と思い出し、UPさせていただきました。長く本場のドイツ料理を食べていない私がエラそうに書くのもおこがましいのですが。

<初めてoder 最近このブログに来てくださいました方へ>
昨年、ドイツ兵の捕虜収容所を舞台にした映画にかかわる機会がありました。このブログでそれについて触れましたところ、この分野に大変お詳しい方が、当時 千葉県の習志野にあった習志野俘虜収容所のメニューをご好意で送ってくださいました。私は全くの素人なのですが、食いしん坊というだけで、記事を書かせていただきました。詳しくはコチラを。下のほう(古い記事)にいろいろと書かせていただいております。

1月9日(水曜日)
Tomatensuppe
Leberknödel mit Bayrisch Kraut
Pellkartoffeln

<Tomatensuppe (トマトスープ)>
トマトの水煮か何かを使ったスープでしょうか。何となく想像つきますよね。でも第一次大戦当時、トマトって日本で一般的だったのかしら・・・

・・・そう思い、ケチャップで有名なカ●メのHPを覗いたら、ありました。
トマトの歴史
明治時代には栽培が始まったものの、当時はイマイチ評判がよくなかったみたいですね。あの青臭い臭いがダメだというのはよく聞きました。このサイトによりますと、1903年にはトマトソース(今のトマトピューレ)が、1905年にはトマトケチャップとウスターソースが製造開始された、とありますから第一次大戦当時は入手可能だったでしょうね。もしかしてカ●メのトマトピューレを使ったのかしら・・・(すみません、私の勝手な想像です。根拠はありません)

P1090033<Leberknödel mit Bayrisch Kraut(レーバークネーデル、バイリッシュ・クラウト添え>
レーバークネーデルは、レバーの入ったお団子。バイエルンやプファルツ、チロル地方で有名だそうです。ドイツ料理屋さんの定番メニューですよね。右の写真は一例です。レシピを幾つか見てみたのですが、これが一番シンプルでした。主な材料は牛のレバー。これを牛乳に浸したパン、タマネギ、塩コショウと一緒に肉挽き器などで挽き、つなぎに玉子を入れて丸めます。この団子を煮立てたコンソメに落とし、火を通して出来上がり。後日、くわしいレシピをUPさせていただきますね。収容所で出されていたクネーデルがこれと似ていたかどうか私には分からないのですが(トマトスープのあとに再び汁物が出るはずないですよね)、イメージということでご了承くださいませ。添え物もあったし、油で揚げるタイプだったのかも。

バイリッシュ・クラウトは前にも書かせていただきました。極細の千切りにしたWeisskohl(キャベツ。向こうのWeisskohl は日本のキャベツより肉厚だと思います)をベーコンやタマネギと共にラードでいため、砂糖・酢・塩を加えてブイヨンで蒸し煮にしたもの。Sauerkraut(ザウアークラウト)にも似ていますね。でも、塩漬けされていないキャベツを使うようです。

<Pellkartoffeln(皮付き塩茹でジャガイモ)>
Wikipedia (写真です) によると、小ぶり~中くらいの大きさのジャガイモを皮付きのまま茹でたものを指すようです。皮をむかずに茹でることから、栄養分や味が損なわれないんだそうです。にゃるほど。その際、煮崩れしにくい、固めの品種(日本でいうとメークイーンかしら)を使うのがポイントとか。ちなみに、普通の Salzkartoffeln (塩茹でジャガイモ)はコチラ

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2006年10月20日 (金)

Rassenschande (←悲しい言葉ですね)

ちょっと重い話題ですみません。ナチスの時代については お詳しい方が大勢いらっしゃるので、無知をさらけだすようでお恥ずかしいのですが一応ご紹介。現在、あの時代を描いた映画を翻訳中です。そこに、Rassenschande という言葉が出てきました。公衆の面前で、絞首刑に処せられ、首からプラカードを提げている死体が映ります。そこに

Ich habe mit einer deutschen Frau Rassenschande getrieben

と書かれているのです。Rasse は英語のrace、「人種」です。Schande は「恥」。直訳しますと、「私はドイツ人女性と"人種の恥"を犯しました」になります。

Wikipedia Rassenschande 

雑誌「Stürmer」のポスター(Rassenschande の特集号のようです)

アーリア人の血を保つために、特定の民族の人たちとの混血を禁じたこと(Das Gesetz zum Schutze des deutschen Blutes und der deutschen Ehre ,1935)は知られていますが、こうして公衆の面前で絞首刑に処し、遺体をさらしていたとは・・・戦争の狂気を改めて思い知らされました。

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話は Rassenschande からそれますが、「ヒトラー~最期の12日間~」でも、逃亡兵や、それをかくまった人たちを片っ端から捕まえては街灯を利用して絞首刑に処す、というシーンが出てきました。首には「Ich bin Feigling (私は腰抜けです)」というプラカード。同じ過ちを繰り返さないために、こうした自国の暗い過去にも目を向けるドイツ人。あらためて見習わなければと思った次第です。

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2006年10月14日 (土)

ドレスデン逍遥

Photo_17お仕事でドレスデン空爆について調べることがあり、とりあえずこの本を注文して読みました。

「ドレスデン逍遥」 
川口マーン恵美 著
草思社

1945年2月のドレスデン爆撃を経験した人々の貴重な証言、空爆を行った英空軍の交信記録(ごくごく一部ですが)、荒れ果てた空襲直後のドレスデン市内の写真など、貴重な資料が盛り込まれ、一晩で読んでしまいました。

さらにアウグスト強王の話や聖母教会建設~崩壊~再建にまつわるエピソード、栄華を極めた絶頂期から共産圏時代の過酷な日々など、ドレスデンの歴史に触れることができます。とにかく写真が豊富です。美しいかつての姿も、変わり果てた痛々しい姿も、そして再建されてよみがえった今の姿も。

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で、この本を読んで私が反省したこと・・・「DDR 時代のドレスデンは真っ黒だった」なんて悪口書いてごめんなさい!!! 東西ドイツに分断され、SED (ドイツ社会主義統一党)一党独裁になってから、ドレスデンは本当にいばらの道を歩まされたようです。市民は何とかかつての姿を取り戻したいと努力したようですが、政府は「再建」する気など さらさらなかったようです。

『そもそも、戦後のドイツ民主共和国(東ドイツ)政府は、バロック建築の復元などにはまったく乗り気ではなかった。東ドイツは最初から最後までSED (ドイツ社会主義統一党)の一党独裁の国であったが、常に彼らが理想としていたのは、町の中心にはスターリン好みの巨大な多目的ホールやスタジアムがそびえ、郊外には巨大構想住宅の立ち並ぶといった風景であった。実際にその頃、そんな殺風景なアパート群は、国の復興とともに、東ドイツの大都市のあらゆるところで建設され始めていた。インテリも労働者も、みなが一様にその狭くて安っぽいアパートに住むことが、共産主義精神の実現であったのだ。それに比してバロック建築などは何の役にも立たないばかりか、王政という過去の遺物、つまり、悪しき階級社会の象徴であり、高邁な共産主義の思想を汚染するものとして位置づけられていた。』(「ドレスデン逍遥」より引用)

市民は何とか過去の建築物の再建に取り組もうとしたそうですが、ことごとく政府から嫌がらせを受けたとのこと。一歩間違えれば、わずかに残った残骸も爆破され、跡形もなく片付けられ、そこにチャチい建物が建設されていたのかもしれません・・・よかった、それだけは避けられて。

そんな大変な中、一つずつ建造物が再建されていったわけでして、クリーニングやメンテナンスまで手が回らなくて当然。真っ黒け、だなんて悪口を書いてしまってごめんなさい。後で書き直しておきます・・・。

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2006年9月18日 (月)

習志野俘虜収容所 ある日のお献立(その4)

久しぶりに習志野収容所の当時の献立表を眺めておりました。そしたら「げげっ」と驚くことが。先日、ザリガニっぽいエビという記事でご紹介いたしました、Leipziger Allerlei という料理が献立表に載っているじゃないですか!これ、メジャ~なお料理だったんですね。ビックリです。このザリガニの代わりに何を入れたんでしょう?車エビかな?ボタンエビかな?甘エビかな?おっと、おすし屋さんと間違えた。今日、初めて当ブログに来てくださいました方、よろしければこちら♪の下のほうをご覧くださいまし。

私ったら新しく「俘虜収容所」というカテゴリーを作っちゃったりなんかして・・・

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Sonntag 8.12.

Suppe
Roastbeef
Leipziger Allerlei
Kuchen
Kartoffeln
Aufschnitt

12月8日 日曜日:

スープ(これだけでは、何のスープか分かりませんね。残念!私が好きだったLinsensuppe(レンズ豆のスープ)だったりして・・・。

ローストビーフ(すごいっ!豪勢です。)

ライプツィガー・アラーライ:Allerlei は辞書では「混合物」「ごたごた」という訳が載っていました。Leipziger Allerlei も小学館の独和に載っています。「エンドウ、アスパラガス、ニンジンなどの入ったライプツィヒ風の野菜煮込み料理」。
キッチン辞典ですと:Mischgemüse aus Spargel, jungen Erbsen, Karotten und Lorcheln.  Statt Spargel wird heute oft auch Blumenkohl beigefügt. (アスパラ、グリンピース、ニンジン、Lorchel(キノコの一種)で作られた野菜料理。今日ではアスパラガスの代わりに しばしばカリフラワーを使う。)レシピを見ますと、塩茹でしてエビの香りを移したバターであえただけみたいなんですが・・・。美味かどうかは不明です。12月のメニューですから、新鮮なグリンピースは手に入らないはず。瓶詰めを使ったんでしょう。案外、瓶詰めも収容所内で作られたものだったりして・・・。

ケーキ(これだけでは、何のケーキか分からず残念。私の好きなSachertorte(ザッハートルテ)だったりして・・・。もちろん、mit Sahne (ミット・ザーネ:生クリームつき)でね! Schwarzwälder Kirschtorte(シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ)でもオッケ~よ♪・・・って、ありえないか。Torte と書いてあるわけじゃないので、どちらかというと Apfelkuchen (アプフェルクーヘン)みたいな焼き菓子かしらん。)

ジャガイモ(調理方法は不明です。できればバターとミルクたっぷりのマッシュポテトがいいなぁ・・・。だけどケーキの後にジャガイモ?きっと順不同なんですね(汗))

アウフシュニット(薄切りのハムやソーセージの盛り合わせのことです。豪勢ですね。日曜日だからかな?)

Leipziger_allerlei_3
先日のとは別の料理本にも載っていました。これは庶民的な郷土料理の本なので、先日載せた写真の料理よりシンプル。オリジナルのレシピにはFlusskrebs(ザリガニ)ちゃんが入っているのですが、検索してみると、入っていないバージョンも見かけました。なお、このお皿は中華皿にも見えますが、たぶん Meißen でしょう。茶色いシワシワのキノコ、毒キノコみたい。

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2006年9月14日 (木)

Hühnerfrikassee (ヒューナー・フリカッセ)

P9130037Hühnerfrikassee (ヒューナー・フリカッセ)という料理があります。鶏肉などの肉を生クリームで煮た料理で、ドイツに行かれた方は、よくご存じだと思います。この料理、名前はフランス語っぽいし、見た目も典型的なドイツ料理とは違うなーと思っておりました。今日、ドイツ郷土料理の本をぱらぱらめくっておりましたら、ベルリンの項で、次のような説明が出てきました(原文を載せたいところですが、時間の関係上、意訳だけですみません):

「17世紀にフリードリヒ・ヴィルヘルム“大選帝侯”が、迫害されたユグノー教徒たちを領内に受け入れるようになってから、ベルリンの食文化もフランスの影響を受けるようになった。彼らがフランス料理のレシピを数多く持ち込んだからである。宗教弾圧により難民となろうとも、彼らは食に対するこだわりを捨てることは決してなかったのだ。こうしてベルリンの人々は料理に生クリームを使うことを覚えた。そして広まった料理がヒューナー・フリカッセだ。」

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実は今日の午前中、健康診断で近所のお医者さんへ行っておりました。長い待ち時間を覚悟して、本棚に置きっぱなしになっていた本をひょいと取り、あたふた出かけました。持参した本を待合室で読んでいたところ、これと関係する内容が載っていたので、「おおっ 同じ日に同じような内容だ~」と思ってしまったわけです。

「誕生後 日の浅いプロイセンは、なぜかくも急速にハプスブルクを脅かす強国へと成長したのだろうか。その秘密は次の4点に要約されよう。
第一に、能率的な官僚と軍隊の存在である。(中略)
第二に、近代的な法秩序が整備されていた。(中略)領内に異民族を多数含んでいたために、国家の統一を共通の民族意識でなく、整った法秩序によって維持しようとしたのである。
第三に、宗教的な寛容である。近代国家として欧州列強に伍していくためには、人口の増加、軍隊の育成、産業の振興が急務であった。そのためプロイセンは、宗教的な迫害を排除し、外国からの宗教難民を積極的に受け入れた。1700年のベルリンの人口の三分の一はフランス人であったという。これらのフランス人は、大量に流入したユグノー教徒(プロテスタント)であった。
第四に、勤勉・節約という国民性である・・・(以下略)(「図説ハプスブルク帝国」加藤雅彦著、河出書房新社)

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三つ目が、ベルリンでヒューナー・フリカッセが広まった理由だったんですね。知らなかったのは私だけでしょうか・・・?「何を今更」と言われてしまうかもしれませんが、「おおっ」と思ってしまいましたので、ご参考までに。なお、どちらかというと発音は「フリカセー」なのですが、「フリカッセ」という表記が一般的みたいです。

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Photo_14 余談ですが、この本を買ったのはかなり昔。エリーザベト皇后(シシィ)が話題になった頃、電車の中で読もうと買ったものの、ついそのままに。本棚の奥で眠っておりました。(うちにはそういう本が多くて・・・反省。)美しい写真や図解がふんだんに盛り込まれ、楽しい本です。ハプスブルク帝国が栄華を極め、そして衰退していく過程が分かりやすく解説されています。世紀末の絢爛豪華なウィーン文化など、眺めているだけで楽しい^^

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2006年9月12日 (火)

Dresden 爆撃

ドレスデンのことを調べていて、次の記事を見つけました。私ったら「ドレスデン大好き」と言っているくせに、爆撃の詳しい内容については知らなかったのです。お恥ずかしい話。先日、NHK でドレスデン空襲の番組を放映しておりましたので、ご覧になった方はお詳しいと思いますが、ご存じない方もいらっしゃると思い、ご紹介させていただきました↓もし、私が間違ったことを書いておりましたら、教えてくださいまし。

Als Feuer vom Himmel fiel  こちらは写真です(写真をクリックしてご覧になれます)

ご参考までに、「ドレスデン爆撃」について。↓資料によって数字がまちまちなので、どれが正しいのか私には分からないのですが・・・。下の資料は、ドイツのウィキペディアとほぼ一致しておりました。

「1945年2月の破壊的空襲の罹災地。同市は数日間昼夜を問わず炎上し、正確な死者の数は不明のままである。45年当時、ドレスデンはドイツ中で最も安全な都市と思われていた。(中略)ヤルタ会談において、ソ連は自軍の攻撃に先立ちドイツの交通の要衝を空爆することを要請し、その結果ドレスデンが標的に選ばれた。

2月13日夜、懺悔火曜日を祝うパーティが終わりに近づいた頃、イギリス空軍による第一波の攻撃が始まった。迎え撃つドイツの夜間戦闘機はほとんどなく、空襲警報が発せられたのもあまりに遅すぎた。この夜の二波にわたる攻撃で、786機のイギリス空軍爆撃機は計2467トンの爆弾を投下した。翌朝、今度はアメリカ空軍爆撃機316機が襲来した。その翌日の2月15日木曜、別のアメリカ空軍爆撃機211機が白昼さらに襲来した。

最初の空襲から二日後の2月15日にはすでに列車がドレスデンで運行していることから、この空襲の有効性については疑問がもたれるかもしれぬ。」(以上、三交社「ナチス第三帝国事典」より一部引用)

*ドイツのウィキペディアによると、2月13日22時13分の第一波で襲来したのは244機、日付けが変わった1時23分の第二波で襲来したのは529機となっています。聖母教会が焼け落ちたのは2月15日10時15分ごろ、となっておりました。

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このStern 誌の記事でも、ドレスデンを爆撃する軍事的な必要性が本当にあったのか、と疑問を投げかけています。ナチス政権は「Kampf bis zum letzten Mann (最後の一人になるまで戦う)」というスローガンを掲げていたため、まだ戦争は長引くとする意見も連合国側にはあったようです。しかし戦争末期のドイツ軍は、末期の日本軍がそうであったように、壊滅的な被害を受けて戦闘能力はほとんど残っていなかったようです。このあたり、素人の私には分からないのですが、無防備だった古都ドレスデンがこの2日間の空襲により、versank in Schutt und Asche.すなわち焦土と化してしまい、多くの犠牲者(犠牲者の数については諸説あるそうですが)が出たことだけは確かです・・・。

Frauenkirche_3

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2006年9月11日 (月)

「青島から来た兵士たち」

9月11日 追加です:
先ほど、この本を執筆なさった高知大学教授の瀬戸先生からメールをいただきました。ブログに来られる皆様によろしくお伝えください、とのことです。丁寧なメッセージをいただき、恐縮してしまいました。

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前から読もう、読もうと思いながらなかなか時間がなかったのですが、予定がぽっかり空いてくれたお陰で読むことができました♪ 

「青島(チンタオ)から来た兵士たち」 高知大学人文学部教授 瀬戸武彦氏 著、同学社

ドイツによる青島占領の経緯(1898年 独清条約締結により、青島および膠州湾一帯を99ヵ年租借することに。)、当時2000名ほどの住民が細々と暮らす小さな村だった青島にドイツが総督府を設立し、鉄道、病院、兵営、港湾、教会、ホテルなどを建設して「要塞都市」にまで拡大した経緯(青島麦酒会社や屠畜場もあったそうな。)、日独戦争の詳細、日本の俘虜収容所へ俘虜が連れてこられた経緯などが分かりやすく解説されています。軍事関係に疎い私でも無理なく理解することができました。

後半の「俘虜群像」の章では、日本に影響を与えた俘虜たち47名が載っています。「へぇ~ この人もそうだったんだー」と思う人も多く、目からウロコが落ちました。

「二つのサッカー国際試合」という箇所はとても興味深いものでした。俘虜チーム対地元の生徒たちのチームで1919年に広島と名古屋で行われた日本初の「サッカー国際親善試合」。当時の新聞記事や写真と共に、ほほえましいエピソードが紹介されています。私が一番感動したのは、クライバーという俘虜が帰国して作ったサッカークラブが現在も存続しており、浦和レッズのブーフヴァルト監督もそのチーム出身だということ。ね、感動するでしょ。

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慣れない異国の地で囚われの身となった俘虜たちの心労たるや、相当なものだったと思います。だけど彼らはそんな状況下でも腐ることなく、前向きに頑張っていたんだなぁ~と改めて思った次第です。日独交流の原点が、こういったところにもあったんですね。

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2006年8月28日 (月)

習志野収容所にカレーが・・・

「ドイツ兵士の見たニッポン」に、当時のお食事のメニュ~が載っておりました。その中身についてブログ上で書くことを著者のおそるべきアマチュア様が快く承諾してくださいまして、これまで幾つか載せさせていただきました・・・

・・・で、「ん?」と思ってしまったメニューがあります。ほとんどの献立が伝統的なドイツ料理なのに、Curry mit Reis の日があるのです~。これって「カレーライス」???

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今でこそドイツ人は本場のインド料理も食べますが、20世紀初頭にカレーライスを食べていたのかなぁ? ドイツにいた頃、わざわざ「ハ●スのバーモントカレー」を送ってもらい、日本風のカレーライスを大鍋に作ってドイツの方々にご馳走したことがありました。「ドイツ人カンゲキ!(古っ)」って反応が返ってくるかなーと期待していたら、「なんでライスとジャガイモが一緒になるの?(主食が重なるのはヘンだ、という発想みたいです)」「ありえなーい、これ辛すぎー」「・・・・・(だんまり)」と、反応はイマイチでした。ホームステイした田舎のお宅だったからかもしれません。各国の料理に慣れた都会のドイツ人だったらカンゲキしてもらえたかも。

もちろん、Currywurst(カリーヴルスト)とか、カレー味のスープなど、ドイツでもカレー味は人気があるのですが、私たちが食べるような「カレーライス」は、ドイツでは見なかったような気がします。インド料理屋さんに行けば、インド風カレーに Langkornreis(インディカ米)を添えた料理は食べられますが・・・

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前置きが長くなってしまったのですが、習志野収容所の俘虜の方々が食べたカレーってどんなだったのでしょ?そもそも、第一次大戦の頃の日本にカレーライスが存在したのでしょうか?素朴な疑問と好奇心がムクムク・・・

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ウィキペディア「海軍カレー」の項目より:

日露戦争当時、主に農家出身の兵士たちに白米を食べさせることとなった帝国海軍・横須賀鎮守府が、調理が手軽で肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスを採用、海軍当局は1908年発行の海軍割烹術参考書に掲載し、その普及につとめた。肉は主に牛肉、太平洋戦争時には食糧事情の変化で豚肉も使われた。その後、復員した兵士がこれを広めたため、カレーライスは全国に広がった。

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げげっ! カレーライスの普及に軍隊が貢献していたとは・・・。知りませんでした。日露戦争当時、とありますから 当然第一次大戦の頃にはカレーライスが存在していたことになりますよね。ってことは、ドイツ軍の俘虜たちもカレーライスを食べて、カンゲキ!していたのでしょうか・・・ お詳しい方がいらっしゃいましたら、お教えくださいまし。 

そうだ、今夜はカレ~にしよう!

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2006年8月27日 (日)

反体制組織のビラ

家にあった本をめくっているうちに、こんな資料を見つけてしまいました。とりあえずデジカメでカシャ。

P8260025
(出典:Unser Jahrhundert im Bild)

2 Jahre Hitler-Sklaverei

Am 30. Januar 1933 übernahm Hitler die Macht!
Zwei Jahre regiert der Führer unumschränkt!
Bist Du, deutscher Bürger, nun wohlhabender geworden?
Bist Du, deutscher Bauer, nun freier geworden?
Erhälst Du, deutscher Arbeiter, nun höhren Lohn?
Bekommst Du, deutscher Arbeitsloser und Rentenempfänger, nun höhere Unterstützungen?
Hast Du, deutscher Junge und deutsches Mädel, nun eine gesicherte Zukunft vor Dir?

Nein!  Hitler betrog Euch alle! (中略)

Wie lange noch?
Schüttelt die Diktatur ab!
Verjagt den Tyrannen!
Es lebe die Volksherrschaft!

「1933年1月30日にヒトラー政権が誕生してからの2年間というもの、ドイツ人の暮らしや収入は ちっとも良くならない。若者も未来に希望が持てない。社会的弱者へのサポートもよくならない。ヒトラーは君たちを欺いたのだ。独裁にノーを!暴君を追放せよ!民主主義万歳!」といった内容が書かれています。ということは、1935年ごろのビラですね。この頃から既に反体制派の逮捕・粛清が相次いでいたとのことです。

こういう反対者は次々と逮捕され、ヒトラーは独裁者への道まっしぐら、となってしまったんですね。白バラよりずっと前、1935年の時点で既にこういったビラがまかれていたことを知り、無知な私は驚きました。

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ところで、一番最後に書いてある「Volksherrschaft」って何ぞや?と思ってしまい、辞書を調べました。民主主義の語源となったギリシア語の「デモクラティア」( δημοκρατίαデモス(人民)+クラティア(権力、支配))をドイツ語にそのまま置き換えた言葉がこれだったんですね。最近では耳にしないな~

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2006年8月19日 (土)

Panzerbär (ヒトラーの自殺前日の新聞)

ある本を読んでいて、こんな写真を見つけました。1945年4月29日付けの新聞「Der Panzerbär(直訳しますと、鎧姿のクマ。クマはベルリンの象徴。戦時中はクマも鎧姿なんですね)」。この翌日の30日、ヒトラーは地下壕内で自殺しています。

P8190050_1

日本の「大本営発表~」じゃないですが、この新聞も壊滅的な打撃を受けたベルリンで発行されたとは思えない内容。

このDer Panzerbär とは何の新聞でしょう・・・?右上に「Lesen und weitergeben!(読んで(次の人に)回してください!)」とありますので、プロパガンダ的な目的で印刷されたものだとは思いますが。お金はタダ?料金が書いてありませんよね。普通だと1部いくら、と記載されているのですが。新聞というよりは広報みたいなものだったのかな。

内容は「Heroisches Ringen /Bei Tag und Nacht neue Eingreifkräfte herangeführt」。戦争に詳しくない私が訳すと誤訳してしまいそうですが、昼夜を問わず続々と援軍がベルリンへ向かっている、ベルリンを守るために皆、雄々しく戦っている!といった内容なんでしょうね。実際は、どの部隊も疲弊していてベルリンには向かえず、町は孤立していた、と聞きましたが。

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ちなみに、Fraktur(ヒゲ文字)が禁止された後ですので、活字は今と同じような文字ですね。

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2006年8月18日 (金)

習志野俘虜収容所 ある日のお献立 (その3)

拙宅へ遊びに来てくださった方々へ

いつも来てくださる方々、初めて来てくださった方々、ありがとうございます。貴重なお時間を割いて読んでくださり、感謝いたします。

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習志野俘虜収容所のお献立 その3でございま~す。今日、始めて当ブログにいらしてくださいました方、もしよろしければをコチラこっち♪、そしてこちら♪♪をご覧になってみてくださいね。

Freitag (金曜日):

Goulasch mit Nudeln
Gefüllter Kohl   Kartoffeln

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Gulasch Goulasch mit Nudeln :グーラッシュ、パスタ添え

Goulasch(グーラッシュ)は Gulasch とも書き、もともとはハンガリーの料理だそうです。ドイツでは有名ですよね。ドイツに行かれた方なら、一度は口にされたのでは。Mensa(大学食堂)や、町のレストランの定番メニューかも。ウィキペディアで調べたところ、一口にグーラッシュと言っても、バリエーションは実に様々とか。でも、必ず入っているのが、パプリカ(ピーマンでなく、いわゆる香辛料のパプリカ)。パプリカをはじめ、様々な香辛料を利かせたビーフシチューに近い味だと思います。鍋に材料ぶちこんで、ひたすら煮ればできあがり。簡単なので、軍隊でも遠征地でよく作られたとのこと。

パスタ:これだけでは、どんな種類のパスタか分からないのが残念。スパゲッティかなぁ?案外、うどんだったりして・・・。それともシュヴァーベン名物シュペッツレ? 収容所ではパンを作っていたくらいですから、麺を打つのはKinderspiel(朝飯前)だったでしょうね。彼ら、力もありそうだし。

(15時:訂正 シュペッツレはバイエルンじゃなくて、シュヴァーベン名物でした~ すみません。樅の木さんのコメントを拝読して、「げっ しまった!」と思い出しました。バイエルンやチロル地方などでも食べるそうですが、おおもとはシュヴァーベンでした。)

Gefüllter Kohl (詰め物をしたキャベツ):Gefuellter_weisskohl

これだけじゃ、どんな物が中に入っていたのか、どういう風に詰めたのか分からないのが残念。いわゆる「ロールキャベツ」はKohlrouladen と言うはずですので、たぶん違いそう。検索したところ、ゆでたキャベツで挽き肉を包んだものが出てきました(ロールキャベツとちょっとだけ見た目が違う)。このことかな?

Kartoffeln (ジャガイモ):

これも調理法は分からず、残念。ゆでジャガイモかな?

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すごい・・・金曜日もご馳走でした。私が知っているドイツ人の老夫婦は、敬虔なクリスチャンであるため、「金曜日は魚」と決めていました。実際、魚屋さんは金曜は大忙し、ということも聞いたことがあります。収容所では、特に金曜に魚を出すことはしなかったのかしら? あれ? この日はデザートなし。俘虜たち、ちょっとガッカリしたかも。

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2006年8月15日 (火)

BS世界のドキュメンタリー『ヒトラーの山荘』 闇の作戦はここで練られた

先日は鳴門ドイツ館の番組を見逃してしまったのですが、今日こそ見逃すまい!と思っている番組がありますので急いでご紹介を。私が翻訳にかかわったわけではないのですが、興味深い内容なので、是非録画しようと思っております。

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BS 世界のドキュメンタリー
『ヒトラーの山荘』 闇の作戦はここで練られた

BS1チャンネル、本日8月15日、22時15分~23時00分

<NHKホームページ 番組紹介より引用>

ドイツ南部、オーストリア国境近くのアルプスにベルクホーフと呼ばれるヒトラーの山荘があった。ヒトラーは、風光明美なこの山荘でナチ政権時代の千日以上を過ごし、ユダヤ人絶滅計画を含む様々な戦略を構想した。山荘の周囲一帯を強制的に住人たちから買い上げ、広大な立ち入り制限区域を設定、親衛隊の部隊を収容する兵舎もでき、ナチスの要人たちも別荘を所有した。
戦後、山荘ベルクホーフは米軍の管理下に置かれ、1996年にバイエルン州に返還された。昨年、シュピーゲルテレビはバイエルン州の許可を得て戦後初めて山荘内部を撮影。番組では、当時の貴重な未公開映像も交え、ヒトラーの私生活をしのばせる部屋や迷路のような地下壕の全貌を伝える。
山荘は2005年7月に取り壊され、当番組がヒトラーの山荘内部を撮影した戦後唯一の記録映像となった。制作者は数々のヒトラー番組で知られるマイケル・クロフト氏。

原題:Exploring Hitler’s Mountain
制作:Spiegel TV(ドイツ 2005)

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2006年8月14日 (月)

N響アワー「鳴門市・ベートーベン“第9”日本初演の地をたずねて

P8130034 昨夜、NHK3チャンネルで、午後9時から表題の番組が放映されました。と、と、ところが!!!まぬけな私はお盆気分でぼーーーーっとして気づかなかったのです。「テレビでもつけてみちゃおうかなぁ~」と、のんきにスイッチを入れたとたん、ろこちゃん様が勤めていらした鳴門市のドイツ館の写真が・・・・! あーしまった!もっと早くに気づいていれば・・・・!!!

P8130036 あわててカメラを取り出し、撮影してしまいました。家族には「なんでテレビの写真なんか?」とバカにされつつ。慌てて撮ったため、斜めになってしまいました。カメラに気を取られ、録画も失敗。私ったらバカ丸出し。

P8130037 再放送されることを期待しつつ・・・。NHKさん、お願いです。再放送してください。

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2006年8月 5日 (土)

Hamsterin, schäme dich! (ハムスター夫人、恥を知りなさい!)

さきほど、ちょろっと調べ物をしていましたら、面白い絵を発見してしまいました。

Hamsterin, schäme dich!(ハムスター夫人、恥を知りなさい!)1940年ごろのポスターだそうです。戦時中で物資が不足している折、買占めする人が後を絶たず、このような呼びかけになったみたいです。写真がうまく撮れなくてすみません。夫人の買い物カゴの中には、手袋、マカロニ、毛糸、油、石けん、ソーセージ、ワインなどが見えます。周囲をうかがうような夫人の目つきがクール(?)

P8040034_1

↓これまた写真の色が悪くてすみません。こっちはもっと時代がさかのぼります。1920年ごろ。「Das lustige Hamsterspiel (愉快なハムスターゲーム)」。「愉快な」というのが、皮肉にも聞こえる楽しいゲーム♪。戦後の混乱で物不足の頃、都市の人々は田舎へ食料の買出しに行ったそうです。ちなみに、戦時中、農村などに買出しに行くことをhamstern と言うそうです。買出しはHamsterfahrt、買いだめした食料などの物資をHamsterware と言うそうな。ゲームについての詳しい説明はないのですが、写真を見る限り、「人生ゲーム」みたいですよね。ブジ食料を買いだめできたら、ゴール!みたいな。竹の子生活だったんですね。(写真をクリックすると、拡大します。先頭のアヒルを抱えたおばさんの顔が愉快なので、ぜひ見てみてください♪帽子もク~ル。)

P8040032

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2006年7月31日 (月)

習志野俘虜収容所 ある日のお献立 (その2)

ある日のお献立 第2弾でございます~(^^)(初めてこのブログを見てくださった方・・・ありがとうございます。コチラ♪とかコチラ♪♪を見ていただくと、分かりやすいかもしれません。もしご興味がありましたら・・・・)

Dienstag :
Tomatensuppe
Königsberger Klopse mit Capernsauce
Salzkartoffeln
  Pfannkuchen mit Kopfsalat

<火曜日>
トマトスープ
ケーニヒスベルガー・クロプセ ケイパーソース
こふき芋

  プファンクーヘンとサラダ菜

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レシピは後日ご紹介させてくださいね。どんな感じだったか、ちょろっと書かせてください。

トマトスープ:これは想像しやすいですよね。たぶん、トマトジュースか生のトマトで作ったスープだと思います。

ケーニヒスベルガー・クロプセ ケイパーソース
P7310020_1 すっげーーー! これは私もドイツ人のお宅でご馳走になり、「んまーい!」と思い、家で再現してみたことがあります。元は東プロイセンの郷土料理だったとか。牛と豚の合い挽き肉にパン粉・タマネギのみじん切り・塩漬けしたニシンかアンチョビを加えてミートボールをつくり、ハーブと共にスープで煮ます。漉した煮汁に生クリームと玉子、ケイパーを加え、レモン汁で味を調えて出来上がり。酢漬けのケイパーが入っているので、独特の酸っぱい香りがします。Capernsauce は Kapernsoße とも書きます。肉の臭みを消す働きもしたんでしょうね。

こふき芋は簡単。

プファンクーヘンとサラダ菜:これはベルリーナのことなのか、それとも先日UPしたライベクーヘン(ジャガイモのお焼き)なのか、これだけでは分かりません。サラダ菜が添えられているから、おそらく後者でしょうね。これだけ行を空け、1段下げて記載されていたので、別メニューだったのかも。

あれ?この日はNachtisch(デザート)はナシ?兵士たち、ちょっとガッカリしたかも。

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ケイパー:フウチョウボク(風鳥木)とかいう植物のつぼみを酢漬けにしたものだそうです。瓶詰めで売ってますよね。酸っぱいやつ。これを入れると独特の香りがします。当時も瓶詰めで輸入したものを使ったんでしょうか。日本製があるとは思えないし・・・。

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では、これからストップウォッチでハコを一つ一つ計ります・・・。涼しいので助かるにゃ~

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2006年7月26日 (水)

Zwieback (ツヴィーバック、ラスク)

ろこちゃん様からいただいたコメントで、また「おおっ」ということを発見いたしました。板東俘虜収容所で発行されていた新聞「Die Baracke」に出ていたそうですが、スペイン風邪が猛威を振るった際、菓子職人が病人のためにラスクを焼いていたとのこと。

ラスク? もしかして、ツヴィーバック???な、な、懐かしい・・・Zwieback

そこで思い出しました。ドイツの方々は風邪や熱で食欲がなくなると、ツヴィーバックを食べる習慣があると聞いたことを。以前、私が「お腹の調子が悪くて何も食べられない~」と言ったところ、「じゃ、私のロッカーにツヴィーバックがあるから、それを食べたら?」と、ドイツ人の同僚が勧めてくれたんです。具合が悪いときに パサパサのラスクはちょっと・・・と思ったのですが、申し訳ないのでいただきました。それは おやつ用のゴージャス版で、ココナッツとチョコが入っていました。元気だったら美味しくいただいたと思うのですが、調子が悪いときは・・・うぷっ。

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このツヴィーバックのことは20年くらい忘れておりました。早速 検索してみたところ・・・やっぱりウィキペディアにありました。

Zwieback というのは、2回(zwei)焼く(backen)ことから、そう呼ばれるようになったとか。本来は保存性をよくするという目的で、パンを二度焼きしてカリカリにしていたそうです。消化がいいということで、子供のおやつや病人食としても利用されるようになったとか。

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祖国を遠く離れ、囚われの身となった俘虜たち。異国の地で病気になるほど心細いことはないですよね。ツヴィーバックを食べては母親を思い出し、祖国に思いを馳せていたのでしょうか。ろこちゃん様、ありがとうございます。

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2006年7月25日 (火)

Berliner (ベルリ~ナ)

「ドイツ兵士の見たニッポン」によりますと、収容所の俘虜たちはベルリーナを食べていたようです。ゴージャス!揚げパンにジャムを絞り入れたベルリーナを実際に召し上がった方も多いと思います。軽いので、何個でもいけちゃう。ミス●ードーナツでもソックリなのが売っていますよね。あれです、あれ。

で、ウィキペディアでベルリーナを検索したところ、く、く、詳しい・・・

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Berliner 基本形:丸めたイースト生地を油で揚げ、中にイチゴジャムを絞りいれたもの。最後に粉砂糖をふるか、もしくは砂糖衣をかける。

変化形:プラムのジャム、チョコレート、モカクリームなど。

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起源:Wiki によると、ベルリーナは1756年ごろ、ベルリンの菓子職人が考案したという伝説があるそうです。砲手としてフリードリヒ大王に仕えるつもりが、兵士としては てんで役に立たなかったとか。それでも菓子職人の腕を買われてか、戦地でパンを焼く係として部隊に残ることを許されたそうです。彼はイースト生地を大砲の弾の形に丸めました。ところが戦地でオーブンがなかったため、普通のパンのようには焼けません。苦肉の策として、フライパンに油を入れ、揚げて作ったとか。

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このベルリーナは、大晦日やカーニバルで食べることが多く、地方によって呼び名が違うとのこと。

●ベルリン、ドイツ東部(フォアポンメルン~テューリンゲンまで):Pfannkuchen (プファンクーヘン)
●ドイツ北部(メクレンブルク~シュレスヴィヒ・ホルシュタイン、ニーダーザクセン、ヴェストファーレン、ラインラント)、プファルツ地方、バーデン・ヴュルテンベルク、スイスのドイツ語圏:Berliner (ベルリーナ)
●ドイツ南部(バイエルン、ヘッセン、バーデン・ヴュルテンベルク、テューリンゲン、オーストリア):
Krapfen もしくは Kreppel (クラップフェン もしくは クレッペル)
●ルール地方:
Berliner Ballen(ベルリーナ・バレン)

面白いことに、ベルリンでは Berliner と言わないんですね。これって樅の木さんがブログで書いていらっしゃる「ウィーンでは、ヴィーナーシュニッツェルって言わんのとちゃうか~」のお話と同じですよね。

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余談ですが、ケネディの有名な演説「Ich bin ein Berliner」(彼は、「私はベルリンっ子だ」と言いたかった)が、実は「私は1コのベルリーナだ」を意味するっていうのは有名ですよね。人の場合、ein は使わないので・・・。

さらに余談です。日本人が多く住むデュッセルドルフには、アンパンを売っているお店がありました。好評だったため、そのお店はアンドーナツも売り始めたのですが、それを私たちは「アン入りベルリーナ」と呼んでいました。似てるでしょ。

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2006年7月24日 (月)

俘虜収容所での食材

昨日から延々と自分の翻訳チェックでした。納品前に、ビデオを見ながら不自然な箇所はないか、とか 日本語がおかしくないか、とか 漢字の間違いや変換ミスはないか(←お得意のミス)を見るのですが、延々とやっていますと 頭がボーーーーーっとしてきます。昨夜はそれほど夜更かししなかったのですが…今度こそ、あとからミスが発覚!ということがありませんように(←毎回そう思っているのですが)。

先日、習志野俘虜収容所のお献立についての記事で「香辛料って手に入ったのかなぁ~」と書きましたところ、ろこちゃん様がコメント欄でいろいろ教えてくださいました。ありがとうございます。ろこちゃん様が快くOKしてくださいましたので、記事のほうにコピーさせていただきました。面白いです!

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香辛料は手に入っていたようです。「ディ・バラッケ」3巻と「どこにいようとそこがドイツだ」に1918年度の義援金の使途として詳細を載せているものがあります。義援金で香辛料や野菜・肉・ソーセージ・魚・牛乳・飼育用豚・・・など購入している他に「東京救援委員会の仲介による食糧調達」という項があり、

A.燻製品と脂(ベーコン、ハム、ラード、チーズ 
B.乾燥果実(梨、プラム、杏、林檎、桃) 
C.豆(グリンピース、インゲン豆) 
D.魚(サージン、鮭、塩にしん) 
E.香辛料(胡椒、肉桂、ケーパー、カレー、丁子、ローリエ、ナツメグ、ヴァニラ) 
F.その他(魚缶詰、マカロニ、コーヒー、ザウアークラウト)
G.器具(レンジ五徳、料理用手斧)と記載されています。

救援委員会というのは、当時日本に住んでいるドイツ人、オーストリア・ハンガリー人などを中心に、元の仲間を支援するために東京・横浜・神戸で設立されていました。どこの収容所にも義援金と共に俘虜たちに希望を聞いて現物などが送られていました。

ついでに、収容所での料理・・「板東」ではどうだったのかなぁともう一度「ディ・バラッケ」にざっと目を通してみました。新聞の編集者たちは料理に興味がなかったのか献立の記載はほとんどないのですが、ひとつ見つけました!「鶏がらフリカッセスープとでかいポーク・ステーキのザゥアークラウト添え」です。(フリカッセスープってどんなのでしょう?)

夏になると、仲間がアイスクリーム、フルーツアイス、レモネードを作って売っていて繁盛しているという記事もありました。

下士官以下は自分たちで食事当番をしていたので、ジャガイモの皮むき当番について、とても嫌がっています。人数が多いので朝からずっとしなければいけなかったようですし、皮が厚いと仲間の料理の責任者から注意を受けたようです。

将校たちはお金を払って将校用レストランで食べるのが普通だったようなので、きっと食事の内容も良かったと思いますよ。ドイツ人俘虜の経営するレストランの他に日本人の経営するものもありました。
これらは「板東」での話ですが、たぶんこうした待遇の決まりはどこも似たようなのではないのかなぁと思います。

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こうして拝見してみますと、豪華ですよね。香辛料も実に様々。胡椒(Pfeffer)、肉桂(Zimt)、カレー(Curry)、月桂樹(Lorbeer)、丁子(Nelke)などは日本でも問題なく入手できるでしょうが、ケーパー(Kapern)やナツメグ(Muskatnuß)、バニラ(Vanille)などは そう簡単には手に入らなさそう・・・。でも、これらはドイツ料理やお菓子に不可欠のものですよね。義援金が集まったとはいえ、調達するのも大変だったのでは。

「鶏がらフリカッセ・スープ」って何だろう?フリカッセ(Frikassee)は、私もいろいろなところでご馳走になりました。ホワイトソースで白っぽい肉(鶏肉、子羊、子牛など)を煮込んだ料理。語源はフランス語。ドイツ人の友人は、「これは鶏肉の料理だから太らないのよ」と言いつつ、脂肪分40%くらいの生クリームをドボドボ入れていました。牛や豚の料理より太りそう・・・。「フリカッセスープ」は、フリカッセに水を加えて伸ばし、スープにしたものだったりして・・・

・・・ということで ろこちゃん様、ありがとうございました(^^)

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2006年7月21日 (金)

習志野俘虜収容所 ある日のお献立 (その1)

「ドイツ兵士が見たニッポン」の著者「おそるべきアマチュア」様が快く了承してくださいましたので、当時の習志野収容所のメニューの一部を載せさせていただきました。す、す、すごい!ドイツ料理店も真っ青の豪華さ。本当かなぁ・・・?DDRのレストランみたいに、メニューは豪華だけど、いざ実際に頼むと「今日はもうおしまいです」って言われちゃったりして・・・。

詳しいレシピを載せたいのですが、時間の関係で後日。

Sonntag (日曜日):
Einlaufsuppe
Schweinebraten mit Bayrisch Kraut
Kartoffeln
Bananeneis

Hamburger Beefsteak mit Bohnensalat

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<ドイツ料理にお詳しい方は「なーんだ、知ってるよ~」と思われるでしょうが、ご存じない方のために ちょこっと解説の真似事を↓>

Einlaufsuppe(アインラウフ・ズッペ) は、「ドイツ風かき玉汁」とでも訳せばいいのでしょうか。これは、煮立てたブイヨンに、卵と小麦粉を水で溶いたものを落としたスープなので、当時も簡単に作れたでしょうね。

Schweinebraten(シュヴァイネ・ブラーテン) Schweinebraten_2 は、ドイツで最もポピュラーなお料理の一つだと思います。バイエルン料理とも言われるそうですが、全国で食べられているような気がします。南部ではSchweinsbraten(シュヴァインス・ブラーテン)と呼ぶそうです。豚の固まり肉をハーブ、香辛料とともにオーブンで焼いたもの。焼いている間、絶えず肉汁やビールを回しかけるのがコツだそうです。それにより、中はジュ~シ~、外はカリッとなるとか。焼きあがったらスライスします。オーブンのプレートにたまった肉汁はデンプンを加えてとろみをつけてソースに。収容所内でも比較的簡単に作れそうですが、ハーブとか香辛料は手に入ったのかな。Schweinebraten_2_1

つけ合わせのBayrisch Kraut (バイリッシュ・クラウト)は、極細の千切りにしたWeisskohl(キャベツ。日本のキャベツより肉厚だと思います)をベーコンやタマネギと共にラードでいため、砂糖・酢・塩を加えてブイヨンで蒸し煮にしたもの。Sauerkraut(ザウアークラウト)にも似ていますね。でも、塩漬けされていないキャベツを使うようです。

Kartoffeln は、もちろん「ジャガイモ」ですが、これだけでは調理法は不明。ただ茹でただけかなぁ~。こふき芋だったら Salzkartoffeln とか記載されるはずなんだけどなぁ。

Bananeneis(バナナアイス)・・・(@0@)!?「バナナ」は当時、高級品だったハズ。「いろはに金平糖、金平糖は甘い、甘いは砂糖・・・(中略)・・・高いはバナナ」というのがありますよね。昭和一桁生まれの父いわく「昔はバナナは超高級品だった・・・!」第一次大戦当時は相当高かったはず。ましてや冷凍技術なんて一般的じゃなかったですよね。驚きです。(余談ですが、DDRでもバナナは高級品でした。外貨不足でしたもんね。)

Hamburger Beefsteak (ハンブルガー・ビーフステーク)。これは別メニューでしょうか。ハンブルク風ビーフステーキは、ひき肉のハンバーグかと思いきや、キッチン辞典や手元にあるドイツ郷土料理の本によると、「茶色に炒めたタマネギの輪切りをのっけた牛肉のステーキ」とあります。味付けは塩コショウ。タマネギがお肉の臭みを消すんでしょうね。

つけ合わせのBohnensalat(ボーネン・ザラート)豆のサラダ。何の豆を使ったのか、これだけでは分かりません。一般的には、Weiße Bohnen(白いんげん豆)を茹でて、マヨネーズやマスタードであえたものだそうです。ちなみに、マヨネーズは収容所内で作られていたようですね。

(参考文献:Das neue Küchenlexikon、"So kocht Deutschland", Dr.Oetker Schulkochbuch)

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2006年7月20日 (木)

ドイツ兵士の見たニッポン

先日ご紹介した習志野市教育委員会編「ドイツ兵士の見たニッポン」を一気に読みました。

Photo

とても感心しましたのは、

・情報(データ、人名など)の豊富さ、正確さ
・写真の豊富さ(←見ているだけで面白いもの多数)
ほほえましいエピソードなども織り交ぜた、分かりやすい文章
・当時の時代背景の正確な説明
・ドイツ語表記や その翻訳の正確さ
・・・などです。

私は軍事関連のことに疎く、Uボートや戦艦もすべて同じに見えてしまうのですが(すみません・・)、この本には当時のメニューですとか、彼らがどんな生活をしていたかなどが詳しく書かれており、女性も面白く読めます。後半に2名の兵士の日記が載っています。当時の生活が手に取るように分かり、頬がゆるんだり、じーんときてしまったり。「ユーバーシャール博士が、日本人の目立った特徴、中でも脚が曲がっていて内股であることについて(収容所内で)講演を行った」という日記には思わず苦笑。X-Beine ってやつでしょうか。内股についての講演?大きなお世話じゃ!と つい思ってしまいました。

こうした俘虜たちの生活についてご興味のある方は、是非このご本をお読みになってみてくださいね。 著者でいらっしゃる「おそるべきアマチュア様」は、執筆にあたり、相当な調べ物&検証をされたはずです。当時のことを話してくださった方々もご高齢のはず。貴重な証言を丹念に検証されたご努力に敬意を表したいと思います。

なお、「おそるべきアマチュア」様が快く「いいですよ~^^」と言ってくださいましたので、別の記事で当時のメニューとおやつについて書かせていただこうと思います。「おそるべきアマチュア」様、ありがとうございます。

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Lohmeyer ~ ローマイヤ

ドイツ兵士の見たニッポンでは、解放後も日本にとどまった俘虜たちについて触れられています。その一人がアウグスト・ローマイヤ。HPを調べてみましたら、載っていました。

ローマイヤの歴史

ユーハイムもそうでしたが、ローマイヤも元は俘虜の方だったなんて、無知な私は初めて聞きました・・・。いやはや、お恥ずかしい。この方は久留米に収容されていたそうです。材料を仕入れるのも一苦労だったでしょうね。日本の木で燻製して本場のような香りは出せたんでしょうか?香辛料なんてどうやって入手したんでしょうね。うちの近所のドイツ・ソーセージ屋さんは、香辛料や塩をドイツから取り寄せているみたいです。(店の奥に、業務用の塩やソーセージ用の香辛料が山積みされているのを発見。ラベルはもちろん、ドイツ語。)じゃないと、あの味は出せないんでしょうね。ローマイヤさんはどうしたんだろう・・・。

余談ですが、神戸のおいしいドイツパン屋さん「フロイントリーブ」も、やはり俘虜として収容された方が始めたお店だそうです。H(ハインリヒ)・Freundliebさん。私的には「~リープ( b じゃなくて p の音)」と表記したいような・・・

こんなサイトも発見。もう終わっちゃったみたいですが・・・残念!美味しそうなのに。

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2006年7月17日 (月)

習志野俘虜収容所

この記事を書いたのは先週なのですが、多くの方々が関連する書籍や資料をご紹介くださいました。過去ログに埋もれてしまうのは あまりにももったいないため、日付けを変更して前に持ってきました。皆様、ありがとうございます。

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いつも遊びに来てくださるU99さんが以前、銀座の老舗ドイツレストラン「ケテル」のオーナーもかつて習志野俘虜収容所に収容されていたドイツ人俘虜だと教えてくださいました。で、それについて詳しく知りたいな~と思っておりましたら、この本を発見。

ドイツ兵士の見たニッポン

面白そうですよね。今度ア●ゾンで注文して読んでみよっと。感想はブログで書かせていただきますね。U99さん、いつも色々教えてくださり、ありがとうございます。

こちらも・・・

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2006年7月16日 (日)

鳴門市ドイツ館

板東俘虜収容所に収容されていた方々が地元の方々と様々な形で交流していたということは、映画「バルトの楽園」でも描かれていました。そんな元俘虜の方々が残した資料を収蔵した施設があります。鳴門市ドイツ館。ご紹介いたしますのは、ろこちゃん様からご紹介いただいたサイトです。

鳴門市ドイツ館

1972年に建造され、元俘虜の方々から寄贈された資料などを展示しているそうです。建物の老朽化および資料の増加で手狭になっため、1993年に新築・移転されたとのこと。私もまだ全部は読ませていただいていないのですが、館報「ルーエ」は読みごたえがありそうです。ご興味のある方は、是非。ろこちゃん様、貴重な情報をお寄せくださり、ありがとうございました。もっと早く記事として載せたかったのですが、なんだかバタバタしておりまして、遅くなりました。申し訳ありませんm(_ _)m

山を背景にしたドイツ館の写真、本当にのんびりとしたいい土地柄なんだな~ということが伝わってきます。地元の皆さん、おおらかなんでしょうね。

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2006年7月12日 (水)

独軍俘虜収容所

先日、ドイツ兵士の見たニッポン(習志野俘虜収容所の本)をご紹介しましたら、執筆なさった習志野市教育委員会社会教育科の関係者の方やU99さん、お義父様が似ノ島の収容所に収容されていたという方からコメントを頂戴し、サイトや書籍をご紹介いただきました。あまりにもすばらしい内容なので、あらためてここでご紹介したいと思います。無断でリンクしてしまって申し訳ないのですが・・・。

習志野俘虜収容所
写真が満載です。映画「バルトの楽園」の世界が、習志野にもあったのだと感激しました。と同時に、スペイン風邪で命を落とされた西郷所長さんの話を読み、じーんときてしまいました。

おすすめの本
昨日ご紹介いただいたばかりで まだ読んでいないのですが、早速注文して読んでみたいと思っています。

ドイツ軍俘虜の収容所について
こちらも大変興味深い内容になっています。日本各地に収容所があったんですね。

これらHP作成に当たった方々のご苦労がしのばれます。写真や貴重な情報が多く盛り込まれていて圧巻です。戦争を知らない世代も、こうした過去の事実を知る必要があると改めて思いました。また、写真を拝見して「百聞は一見にしかず」と思った次第です。

なお、勝手にリンクしてしまいました。もし、ご覧になって不快に思われる方がいらっしゃいましたら、お手数ですがご連絡いただけますでしょうか。個人のブログに勝手にリンクしてよいものかどうか、迷ったのですが・・・

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2006年7月 7日 (金)

スターリングラード包囲網

同時進行で色々なことをやっているのですが、ドイツ軍によるスターリングラード包囲網について調べる必要が出てきました。恥をさらすようですが、あまりよく知らないんです・・・。大勢の市民が餓死したこととか、寒さでドイツ軍の被害も甚大だったこととか、その程度しか知りませんでした。調べれば調べるほど、被害の規模の大きさに愕然としてしまいます・・・。

戦争は絶対にやっちゃダメですね。ミサイルもダメ!

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2006年6月28日 (水)

Juchheim (ユーハイム)

昨日、私が翻訳を始めるきっかけとなった方と久しぶりにお会いしました。そのとき、ユーハイムの話題が出ました。ユーハイムの創始者の苦労話はご存知の方も多いと思います。日本で初めてバウムクーヘンを売り出した、ということは聞いて知っていたのですが、第一次大戦で日本の俘虜収容所に収容され、その後帰国せずに日本でお菓子やさんを始めた、ということを聞いて「バルトの楽園」のカルルを思い出しました。

Juchheim夫妻の物語

Karl Juchheim は映画の舞台の坂東俘虜収容所ではなく、広島の収容所に収容された、ということですから厳密には異なりますが、青島から日本へつれてこられ、その後ケーキ屋さんを開店した、というところはソックリ。カルルはKarl Juchheim をモデルにしたんでしょうね。ちなみに、本当は「ユーハイム」ではなくて「ユッフハイム」のほうが原語に近いのでは、と思います。

このHPの説明を読むと、ホント苦労したんだな~というのが伝わってきますね。厳しい収容所生活、慣れない異国でお店を開店、そして関東大震災。着の身着のまま神戸へ逃げて、そこで再び開店。ところが第二次世界大戦勃発で六甲へ疎開・・・ふぅ。現代に生きる私たちには想像できないほどの苦労だったでしょうね。

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2006年6月27日 (火)

ナチ党階級

ナチス関係の調べ物をしておりました。Blockwart という言葉です。家にあったナチス第三帝国事典で調べたところ、それ以外にもいろいろ載っていたので、書き出してみました。この時代に詳しい方が多くいらっしゃるので、「いまさらこんな初歩的なことを・・・」と思われるのでは、と恥ずかしいのですが。

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<ナチ党階級>(偉い順でございます~)

Reichsleiter (全国指導者):党上級幹部。例えば党官房ボルマン、党法制局フランク、宣伝部門ゲッベルス、SS(親衛隊)ヒムラー、党組織部門ライ、党対外部門ローゼンベルク。

Gauleiter(大管区指導者):党地方支部における上級幹部。(この上に州総監があったが、1930年代に廃止された。) ちなみに、Gau(大管区)は、国家内における政治上の地域区分を意味するフランク族の古い用語で、ナチ党の行政区域を表すのに用いられた。

Kreisleiter(管区指導者)

Ortzgruppenleiter(地区指導者)

Zellenleiter(細胞指導者):細胞?ヘンな訳だな・・・これで合ってるのかしら。

以上は党エリートで、この下に次の階級があった:

Blockwart (街区監視者):街区単位で政治的監視を行うナチ党員。地位は低いが、きわめて重要な地域党員で、各自担当する街区住民に関する情報を、その地域の党事務所に通報する役割を担っていた。

Bereitschaftsleiter(緊急指導者)、Hauptarbeitsleiter(最高勤労指導者)、Oberarbeitsleiter(上級勤労指導者)、Arbeitsleiter(勤労指導者)、Helfer(党協力者)

(三交社「ナチス第三帝国事典」より引用)

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・・・ピラミッド構造だったんですね。

ところで今日の停電は、うちのお風呂のリモコンを壊してくれちゃいました。温度調節とか、水量調節とかができなくなってしまいました・・・(泣)どうしてくれよう~!

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2006年6月22日 (木)

死刑の請求書

早速、「写真で見る20世紀」から。ゾフィ・ショルやハンス・ショルに代表される「白バラ」の映画が公開されたこともあり、ナチスの時代に抵抗した人々の存在は日本でも有名になりました。こうして処刑された人々の遺族は、処刑後に請求書を受け取ったそうです。(写真をクリックすると拡大されます♪)

P6210018 

その内訳は、「処刑代」300ライヒスマルク+諸経費。この資料には、諸経費として郵便代、証人などの経費、弁護士費用、勾留費用(?)などなどが載っています。この写真の遺族は782.92ライヒスマルクの請求を受けました。なお、この記事によると、遺族は処刑された家族の死亡広告を新聞に載せることを禁じられたそうです。こうした「蛮行」は、やはりひた隠しにしたかったようですね。

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ところで本に載っている写真って、個人のブログに載せていいのでしょうか?著作権などの侵害にならないか、ちょっと心配です。こうした権利関係にお詳しい方、アドバイスをいただければ幸いに存じます・・・

では、明日の朝一に間に合うよう、頑張りま~す。

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2006年6月21日 (水)

歴史の本 発掘!

明日の朝一で納品しなくてはなりません。焦ってます。ヤバいです。ヤバいはずなんですが、面白い本を発掘してしまったんです。20年くらい前、ドイツの方からいただいた本なのですが(すごく分厚い!)、本棚の端っこですっかり埃をかぶっておりました。

・・・ところが今日、調べ物をしているときに発掘。すっかり忘れられた存在だったのですが、ページをめくってみると これがまた面白い!

P6210021 P6210020

「Unser Jahrhundert im Bild」---意訳すると「写真で見る20世紀」って感じでしょうか。20世紀初頭から20世紀末までの激動の100年間が、貴重な写真や絵と共に詳しく解説されています。私ったらつい、「ドイツ史がらみのこと」なるカテゴリーを新たに作ってしまいました。

これから少しずつではありますが、ちょくちょくご紹介したいと思います(^^)

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Flaggen (しつこいですが、またまた旗のお話)

しつこいですが、またまた旗の話題です。調べれば調べるほど奥が深く、面白い!ウィキもなかなか充実しております。

ドイツの旗坊だじょ~(ウソ)

先日ご紹介した旗のサイトの最後に、補足が付け加えてありました。

*ハーケンクロイツや、ハーケンクロイツに似たマークのついた旗は禁止。(これは有名ですよね)
*「黒-白-赤」の旗や、DDRの旗を掲げるのはOK。
*個人がBundesdienstflagge を掲げるのは禁止。

Bundesdienstflagge_ ここで、ギモンが。「Bundesdienstflagge」って何だろう?辞書で引いても和訳が出てこないのですが、ウィキによりますと「連邦のシンボルであり、州や地方自治体や個人がこれを掲げてはならない」のだそうです。そういえば連邦議会などで見かけるワシのマークと同じものがついていますよね。この和訳をご存じの方がいらっしゃいましたら、お教えくださいまし。

たかが旗、されど旗。この3色の旗には長い歴史があったんだな~と改めて思った次第です。

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余談ですが、DDRの旗のマーク。穂は実りを、コンパスは英知を、ハンマーは労働を意味すると聞いたことがありますが、合ってるかな?

さらに余談ですが、「旗を掲げる」って、eine Flagge führen と言うんですね。私ったら知りませんでした。führen って色んな意味がありますよね。

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2006年6月20日 (火)

Deutsche Nationalflaggen (ドイツの国旗) その2)

昨日に続き、旗を調べました。詳しい方は「な~んだ、常識だよ~」と思われると思いますが、家にあった本を開いたところ、なんと一発で旗のページが開いたので(←ホント!)せっかくですから一部抜粋させていただきますね。ちょっと堅苦しい文章ですが。私ったら締め切り前にこんなこと書いちゃって・・・

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Deutschlandfahne_ 「連邦国旗(Bundesflagge)は「黒-赤-金」色である。(基本法(Grundgesetz)第22条)。

ドイツ国民にとってもっとも重要な象徴の一つ「黒-赤-金」の3色が今日的意味を持つようになったのは3月革命前期(1815~1848年)のことである。現状に不満を抱く学生たちが1815年、イェナ大学に新たな全学的学生団体「ブルシェンシャフト(Burschenschaft)」を結成。設立に携わった学生たちがリュッツォー義兵団の一員として従軍していたので、その制服(黒地に赤のモール、金ボタン)の色をブルシェンシャフトのシンボルカラーとし、赤と黒のストライプに金のフリンジがついた旗を団体旗とした。

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その後もこの3色は、「統一と自由のための戦いの象徴」として一般に理解されるようになった。

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Deutsches_reich_fahne__3 一方、1866年の普墺戦争(プロイセンVSオーストリア)では、オーストリアを中心とする敵軍が「黒-赤-金」の旗のもとにプロイセン軍と激突。当然、ビスマルクはこの3色を嫌悪。普墺戦争の終結後、北ドイツ連邦の旗に選んだのは「黒-白-赤」だった。プロイセンの伝統色「黒-白」と、ハンザ都市を始めとする北部ドイツの伝統色「赤-白」を組み合わせたものだった。そしてこの旗がビスマルクによるドイツ統一後も国旗として使用されることになる。

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ワイマール共和国では、当初から国旗の色をめぐって激しく意見が対立した(いわゆる国旗闘争)。左右両派の妥協を図るため(←ワイマール共和国らしい!)、「黒-赤-金」を国旗とする一方、商船旗は第二帝国の色である「黒-白-赤」を採用。

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ナチスの時代には1935年の国旗法により「黒-白-赤」が国家象徴の色とされ、ハーケンクロイツ旗を国旗および商船旗とする旨定められたが、1945年に廃止された。

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Deutschlandfahne__1 第二次大戦後に誕生した二つのドイツ国家が「黒-赤-金」を国家の色にすることについてさしたる抵抗はなかった。西ドイツは再統一を政治の至上目標としていたので、全ドイツを象徴する伝統の色に復帰する道を選択。他方、東ドイツも49年の憲法でこの三色を「ドイツ民主共和国のDdr_fahne_ 色」と定め、その後中央に国章(穂の環に囲まれたハンマーとコンパス)を配した。

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参考文献:大修館書店 事典「現代のドイツ」より一部抜粋
     
 ドイツの国旗のサイト

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Deutsche Nationalflagge (ドイツの国旗)

皆様、こんな私のブログを読んでくださり、ありがとうございます。今日は夕方から試写があって出かけておりました。帰ってきたのは9時過ぎだったのですが、この時間に外出したのは久しぶり。ちょいと疲れました。おかしいな~昔は9時なんて、まだ宵の口だったのに・・・

ところで、いつもコメントを下さる方が、とても面白いことを教えてくださいました。

バルトの楽園で、黒-白-赤の旗が映ったそうです。(私は気づかなかった・・・!)そういえば、ドイツの旗って時代によって違うと聞いたことがありました。そもそも、「ドイツ帝国」として統一されたのもビスマルクの時代になってからですもんね。それまでは各国様々な旗があったことだと思います。

で、調べてみましたら・・・

・・・あった、あった。

ドイツの旗の変遷

ざっと斜め読みですが、黒-白-赤の旗は、1871年のドイツ統一から1919年の第一次大戦敗戦までドイツ帝国の国旗とされていたみたいですね。その後、ワイマール共和国では現在の黒-赤-金の旗が国旗になっています。1933年のナチス政権では、ご存じハーケンクロイツ。そして1949年から現在に至るまで、おなじみの国旗に戻っています。もっとじっくり読んで書かせていただきたいところなのですが、もう遅いので続きは明日。たぶんこのあたりは、戦争にお詳しい方はよくご存知だと思うのですが。

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追記:このサイト、旗以外にも色々載っていて面白いです!ドイツ帝国以外にもプロイセンやバイエルン、ザクセンなども載っています。7月になってヒマになりましたら、じ~っくり読ませていただき、記事を書かせてくださいね↓

こちらもご覧あれ♪

さらに追記:このサイトを見ていて気づいたのですが、1866年の戦争って、私たちは歴史で「普墺戦争」って習いましたよね。でもドイツ語ではDeutscher Krieg って言うんですね・・・詳しいことは読んでみないと分からないのですが。

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2006年6月13日 (火)

Führerhauptquatier(総統司令部)

ここ2、3日、第三帝国について調べ物をしておりました。そこで「総統司令部」が出てきまして、幾つかありましたので、書き出してしまいました。第三帝国についてお詳しい方にとっては常識だと思うのですが、私はあまり詳しくないもので、おぉ・・っこんなにあるのか~と思ってしまいまして。ネーミングが変わっています。こうした名前だけでも、周りの人々は洗脳されてしまいそうです。昨年ヒットした映画「ヒトラー 最期の12日間」では、冒頭にヴォルフスシャンツェが出てきますよね。そしてメインの舞台はフューラーブンカー(総統地下壕)でした。

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総統司令部:
ヒトラーは事故の軍事上のポストに権力を集中させることでリーダーシップを発揮し、また軍事機構の完全なる操作を行った。1939年のポーランド侵攻の際、特別鉄道車両を総統司令部として用いる一方、さらに各地に総統司令部を設置し続けた。それらは、ヒトラーのたくましい想像力により、以下のように命名されていた。

Felsennest (岸壁の巣):1940年、ベルギー国境から約48キロの、ミュンスターライフェル温泉場に設置。

Adlerhorst(鷲の巣):1940年、アルデンヌ近郊ツィーゲンベルクに設置。やがてあまりに贅沢すぎるという理由で、ヒトラーはこの司令部を放棄した。戦争後期にシュペーアによって防弾シェルター付きに改築され、44年のアルデンヌ大反攻の間、ルントシュテット将軍の司令部として使用された。その後ヒトラーは、44年12月から翌年1月中旬までのごく短期間、ここに戻って来ている。

Wolfsschlucht (狼の谷):1940年6月6日から25日の間、フランスのブリュリ・ル・ペーシュに開設。あまりのブヨの大群に我慢ならず、ヒトラーはここを後にしたという。

Tannenberg(タンネンベルク):1914年の対ロシア戦勝利ののちに命名される。シュヴァルツヴァルトのフロイデンシュタット近郊に設置。1940年、対フランス戦末期に使用される。

Wolfsschanze(狼の巣):1941年から44年にかけて、東プロイセンのラステンブルクに開設。44年7月のヒトラー暗殺未遂事件の舞台。

Wehrwolf (狼人間):1942年7月、ウクライナのヴィニッツァに設置。

1945年1月中旬からヒトラーの死ぬ4月まで、総統司令部はベルリンの地下壕に置かれた。

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