カテゴリー「DDR(ドイツ民主共和国、旧東ドイツ)」の記事

2007年5月 8日 (火)

懐かしのベルリン

 この連休はずっと家にいたのですが、最終日は所用で実家へ行ってきました。昨年、何冊かアルバムを持ち帰って古い写真をブログに載せちゃいましたが、まだあったんですね。私もすっかり忘れておりました。「開かずの間(どこのお宅にもあるでしょ、開けると物がどどどーーーっとなだれ落ちてくるようなお部屋が。)」にまだアルバムが何冊か・・・。

 ベルリンを訪れた人なら誰もが行く場所なので、私と同世代の方々は同じような写真をお持ちだと思ったのですが、懐かしいのでついつい載せちゃいました。冷戦時代のものです。

Brandenburger_tor_1

壁崩壊前のブランデンブルク門。ACHTUNG!Sie verlassen jetzt West-Berlin (注意!西ベルリンはここまで)という有名な立て看板。「ご注意!ここであなたは西ベルリンを出ることになりますよ!何があっても知りませんからね!」といった含みのある表現です。学生時代に初めてここを訪れたときは驚きました。そういえばここはいつも人だかりができていましたよね。

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国境付近の検問所、チェックポイントチャーリー。アメリカ、フランス、イギリスの管轄化にありましたよね。この写真からは物々しさは伝わってこないのですが、とにかく小心者の私はビクビクしていました。(アルバムには、どの検問所か書いていなかったのですが、別のアングルで撮った写真を日記に載せていらっしゃる方に教えていただきました。同じ建物ですね。焼きそうせいじ様、教えてくださり、ありがとうございました。)

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同じくチェックポイントチャーリー。目をこらして見てみると、向こうのほうにペプシコーラの看板が。アメリカっぽい。最近の写真を見ますと、一部だけ残されているみたいですね。

P5060027_1チェックポイントチャーリーにあった博物館の入場券。アルバムにべったりくっついて(涙)剥がれなくなってしまいました。裏面にはRivarol という人の言葉が:
Die Politik gleicht der Sphinx der Fabel.  Sie verschlingt alle, die ihre Raetzel nicht loesen.  Rivarol. (政治はスフィンクスに似ている。謎が解けなかった者をすべて飲み込んでしまうのだ。)

Musium

博物館の中の展示物。有名な写真です。 焦土と化したベルリン。このあともベルリンの苦難の道は続きましたね。

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西ベルリン内にあったソ連戦勝記念碑。ここはソ連の管轄下でした。ネットで最近の様子を見ましたが、もう鉄条網なんてないんですね。当たり前といえば当たり前だけど・・・。当時は一種異様な雰囲気がただよっていたような記憶があります。近寄りがたかった・・・。

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こういった十字架に胸が痛んだものです。「DDRに7年間拘束されたのち、逃亡中に東ベルリンで射殺」

 初めてベルリンを訪れたのはこれより前でしたが、それまで書物を読んだり、話を聞いたりして想像していたものより実際の雰囲気ははるかに物々しく、強い衝撃を受けました。同じ思いをされた方も多いと思います。かつて1つの都市だったところに2つの体制が存在し、しかもその間は非情な壁で仕切られているという不自然な状態。そんな現実をまざまざと見せつけられたように感じました。西ベルリンでも東ベルリンでも友人宅にお世話になったのですが、どちらもその状態に不思議と慣れてしまっているような印象も受けました。20年前の話。大昔とも言えますし、つい最近とも言えますし。

 ちょうどこの時期、東ベルリンで歌が流行っていたのを今思い出しました。全部は覚えていないのですが、サビの部分で「Berlin, Berlin.  Die Mauer muss weg!」という歌詞が入るのです。どなたか覚えていらっしゃいませんか?もとは西側の歌だったんでしょうか・・・?東ベルリンの友人がこの歌を聴かせてくれて、「Das stimmt! Sie haben recht! (そのとおり!彼ら(=歌手たち)の言うとおりよっっ!」と。こんな歌を聴いてていいんだろうか、密告されてたらどうしよう・・・と真剣に心配しました。

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2006年10月14日 (土)

ドレスデン逍遥

Photo_17お仕事でドレスデン空爆について調べることがあり、とりあえずこの本を注文して読みました。

「ドレスデン逍遥」 
川口マーン恵美 著
草思社

1945年2月のドレスデン爆撃を経験した人々の貴重な証言、空爆を行った英空軍の交信記録(ごくごく一部ですが)、荒れ果てた空襲直後のドレスデン市内の写真など、貴重な資料が盛り込まれ、一晩で読んでしまいました。

さらにアウグスト強王の話や聖母教会建設~崩壊~再建にまつわるエピソード、栄華を極めた絶頂期から共産圏時代の過酷な日々など、ドレスデンの歴史に触れることができます。とにかく写真が豊富です。美しいかつての姿も、変わり果てた痛々しい姿も、そして再建されてよみがえった今の姿も。

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で、この本を読んで私が反省したこと・・・「DDR 時代のドレスデンは真っ黒だった」なんて悪口書いてごめんなさい!!! 東西ドイツに分断され、SED (ドイツ社会主義統一党)一党独裁になってから、ドレスデンは本当にいばらの道を歩まされたようです。市民は何とかかつての姿を取り戻したいと努力したようですが、政府は「再建」する気など さらさらなかったようです。

『そもそも、戦後のドイツ民主共和国(東ドイツ)政府は、バロック建築の復元などにはまったく乗り気ではなかった。東ドイツは最初から最後までSED (ドイツ社会主義統一党)の一党独裁の国であったが、常に彼らが理想としていたのは、町の中心にはスターリン好みの巨大な多目的ホールやスタジアムがそびえ、郊外には巨大構想住宅の立ち並ぶといった風景であった。実際にその頃、そんな殺風景なアパート群は、国の復興とともに、東ドイツの大都市のあらゆるところで建設され始めていた。インテリも労働者も、みなが一様にその狭くて安っぽいアパートに住むことが、共産主義精神の実現であったのだ。それに比してバロック建築などは何の役にも立たないばかりか、王政という過去の遺物、つまり、悪しき階級社会の象徴であり、高邁な共産主義の思想を汚染するものとして位置づけられていた。』(「ドレスデン逍遥」より引用)

市民は何とか過去の建築物の再建に取り組もうとしたそうですが、ことごとく政府から嫌がらせを受けたとのこと。一歩間違えれば、わずかに残った残骸も爆破され、跡形もなく片付けられ、そこにチャチい建物が建設されていたのかもしれません・・・よかった、それだけは避けられて。

そんな大変な中、一つずつ建造物が再建されていったわけでして、クリーニングやメンテナンスまで手が回らなくて当然。真っ黒け、だなんて悪口を書いてしまってごめんなさい。後で書き直しておきます・・・。

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2006年9月 5日 (火)

懐かしのDDR (その7 壁の崩壊)

私のブログに遊びに来てくださり、ありがとうございます。こうして古い写真を十数年ぶりに眺めてみますと、出てくるのはため息ばかり。

「あぁ・・・あの頃は若かった。お肌がピチピチ」

・・・ではなく、

「あぁ・・・DDR は矛盾だらけの国だったけれど、息の詰まるような監視と規制の中、やり場のない怒りを抱えながらも みんなそれなりに工夫して前向きに頑張っていたんだなぁ・・・」

お~っと、すみません。ついつい感傷的に。DDR話にお付き合いくださいました方、あらためて御礼申し上げます。「な~んだ、この話なら知ってるよ~」と思われた方も多いと思います。我慢して読んで下った方、ありがとうございました。

DDR では、どこへ行っても親切にしていただいたので、悪い印象は全く持っておりませんでした。当局のやり方には「?」とか「!?%\#*?+@....!!!」と感じることが多かったのですが。壁が崩壊したとのニュースは、当時勤めていたドイツ系企業のモニター(ロイター)で知りました。目頭が熱くなったのをよく覚えています。

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壁の崩壊 (過去の記事) ←ここでも書かせていただいたのですが、1989年10月に旅行した際、ドイツでは東西とも様子が一変していました。テレビでは連日、東から西へ逃げる人々の様子が映し出されていました。その時点では、まさか1ヶ月もしないうちに壁が崩壊するなどと誰も思っていなかったはず。それでも皆、「これはただ事じゃない」と感じていたようです。

ライプチヒやベルリンでは毎週月曜日に民主化を求めてデモが起こるようになりました。当局は最初、平静を装っていたようなのですが、さすがに無視できなくなったようです。


デモの拠点の一つとなった、ベルリンのゲッセマネ教会。「不当に逮捕された者たちに代わって祈ろう」と書かれた横断幕。この日は集会があった翌日で、ロウソクを灯した跡があちこちに見られました。

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1989年10月17日付けの新聞の切り抜きもアルバムに貼ってありました。上の写真と同じ日の記事です。

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長々と DDR 話にお付き合いくださり、ありがとうございました。これでおしまいです。最後まで読んでくださいまして、感謝いたします。

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2006年9月 4日 (月)

懐かしのDDR (その6 お店)

映画「グッバイ、レーニン!」や「トンネル」でも店の様子が映されたりしましたが、DDR の物不足は深刻でした。ベルリンは首都というメンツもあり、地方都市に比べるとまだ“マシ”ではありましたが、それでも「買いたい!」と思うような商品はありませんでした。この記事を読んでくださっている方の中にも、東ベルリンのデパートなどに行かれた方がいらっしゃると思います。とにかく陳列棚が寂しかったですよね・・・

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何でも画一的なDDR は、スーパーマーケットの造りもよく似ていました。スーパーマーケットは “Kaufhalle” と呼ばれ、下のような店構えになっていました↓

Greifswald
これはグライフスヴァルトの絵葉書の一部を拡大したものです。(当時、白黒の絵葉書が主流でした~!カラーの絵葉書は色が悪くて紙が薄く、しかも高い。) Kaufhalle の文字が見えます。そして向かって右に「HO(Handelsorganisation=国営小売商店)」のロゴ!!中心に街灯が入ってしまっていますが、HO のロゴが見えるでしょ。コレです、コレ!小売店にことごとくついていたロゴ。垢抜けなくて、なんとも滅入るロゴでした。

Ddr
スーパーマーケット以外では、こうした小売店もありました。店は確かにありましたが、中身がありませんでした(泣) Textilien という文字が見えます。衣料品店のはず。

Berlin_
驚いたのが、このベルリンの品揃え。1989年ごろに新しくできた一角にあった店だと思います。そこに案内してもらい、驚きました。DDR とは思えないほど品物が豊富で。

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<Intershop インターショップ>

Intershop_2 DDR の人たちにとって、とっても残酷だったインターショップ。魅力的な商品がてんこもりなのに、西ドイツマルクやドルといった外貨でしか買えないお店。インターショップについて 過去の記事です 「堕落した資本主義から守るために壁を築いた」はずなのに、自らがその壁の内側に資本主義の象徴のような店を作ってしまう。この矛盾を当局はどうやって国民に説明したんでしょうね。

・・・と怒ってみたものの、実は私ったら1989年に行った際、ちゃっかりインターショップで買い物をしていました・・・。ご丁寧にもボールペンで何を買ったかまで書き残しています。DDR の友人の前では買いにくかったので、どうも89年に行った際、最後の日に一人でベルリン見物したときに買ったみたいです。

ディオールのマニキュアが17西ドイツマルク。当時のレートで計算しますと、1200円程度。なぜ西側より安い価格で提供できたのか、そのからくりは分からないのですが、とにかく外国人観光客がブランド衣料品やブランド化粧品をインターショップで買い込んで、外貨を落としていました。

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懐かしのDDR (その5 マイセン)

マイセンへ初めて行ったのが1986年の7月。それから数回 遊びに行きました。マイセンは歴史の重みが感じられる、それはそれはすばらしい古都なのですが、残念なことに手入れがされていなかった・・・ ロマンチック街道など西ドイツの諸都市が、いかにお金と人手をかけて「中世らしさ」と「現代的な清潔さ」を両立させているかを痛感しました。また、住んでいる人々の努力だけではどうしようもない面もあるんだな、ということも。

Dom_zu_meissen
アルプレヒツブルク城と大聖堂の方向を示す表示板。きっと今では綺麗に手入れされていることでしょう。

Meissen_dom_
大聖堂の正面。真っ黒・・・。

Meissen
高台からお城を望む。最新の旅行ガイドなどを見ますと、お城(尖塔のある大聖堂以外の部分)は真っ白に塗られていました。当時はこんなに手付かずの状態でした・・・

Meissen_
たしかに中世そのものだったのですが、手入れが行き届いている西ドイツに比べると、やはり雰囲気は違います。同じドイツなのに、どうしてこんなに違うの?と悲しくなったと同時に、社会主義国の現実を目の当たりにして愕然としました。

Propaganda
町で見かけたスローガン。「社会主義が強固なものになれば、より平和になる」といった意味で、あちこちで見かけました。こうしてみると、手書きっぽいですね。スローガンを撮影するのはご法度だったはずなのですが、こっそり撮ったのかな。

マイセンに長年住んでいらしたお年寄りが、「せっかくの古都なのに、修復されないままで悲しい」とおっしゃっていました。どの人に会っても、マイセンを誇りに思っている様子が伝わってきたのですが、同時に「もっと手を入れてほしい、昔の姿をよみがえらせてほしい」と願っている様子も伝わりました。今では今まで以上に観光名所となりましたから、恐らく修復も進んでいることと思います。

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大聖堂の入場券
1マルク5ペニヒでした。

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大聖堂のオルガンコンサート
お値段は50ペニヒ!

P9040005_1 マイセン陶器の工場。見学するのに1マルク必要でした。DDRのあちこちで見られた、「VEB(Volkseigenerbetrieb、国営企業)」の文字が見えます。


P9040006_1 マイセン陶器の博物館。今も観光客でにぎわっていることでしょう。

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2006年9月 3日 (日)

Klosterruine Eldena (エルデナ修道院跡)

今回、DDR の写真を十数年ぶりに眺めていましたら、修道院跡を訪れたときのことを思い出しました。「あら上手に撮れてるじゃない?」と自己満足に陥りそうな写真があったので、ちょっとご紹介。樅の木さんもおっしゃっていましたが、当時のDDR には 結構ガレキが点在しておりました。修復には莫大な費用がかかるため、放置されていたのかもしれません・・・。でも、残骸を見るだけでも、当時の素晴らしい姿が目に浮かぶようです。ちょっと検索しただけで、いろいろ出てきました。

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<エルデナ修道院>

バルト海に面したハンザ都市 Greifswald (グライフスヴァルト)の近郊にあります。1199年、シトー会修道士たちにより「ヒルダ修道院」が建てられたそうです。その後「エルデナ修道院」に名前を変えたとのこと。ところが1633年に悲劇が。ドイツ各地が壊滅的な打撃を受けたといわれる30年戦争の最中、名将ヴァレンシュタインが率いる軍により破壊されてしまったそうです。スウェーデンによる統治を受けていた時代は採石場がわりにされ(レンガを持ってかれたんでしょうね)見るも無残な姿に。1827年になって、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が遺跡の保存に乗り出したとか。

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Klosterruine Eldena(ドイツ語です)

このサイトによりますと、建立800周年を記念して、きれいに手入れされたとのこと。私が訪れたときは、今にも崩れそうで近くに寄るのも恐ろしかったのですが、そのあたりも補強されているんでしょうね。

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旧東ドイツ時代の Unter den Linden (ウンター・デン・リンデン)

「懐かしのDDR その4」まで書かせていただき、「その5」でマイセンを、と思っているのですが、その前に少し脱線。

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先日、東ベルリンを写した西ドイツの絵葉書を見て、思いました。

「この『いかにも共産圏』っぽい建物 なんだろう?」

東ドイツの友人からもらった「Reisebuch DDR(DDR 旅行ガイド)」があったのを思い出し、ベルリンを調べると、ちゃ~んと載ってました。ご丁寧にもウンター・デン・リンデン を拡大したマップが。

Unter_den_linden__1

(順序は地図と同じです)
国民教育省        ハンガリー大使館
ソ連大使館        ポーランド大使館
エアロフロート       外国貿易省
コーミッシェ・オーパー    FDJ (ドイツ青年同盟)中央組織
グランドホテル       インターホテル“ウンター・デン・
リンデンコルソ       リンデン”

(↑何なのか不明。     ブルガリア文化センター
現在はオフィスビル      ドイツ国立図書館
みたいです)          (↑kio さんがよく行かれる『シュター
労働組合の事務所    ビ』?
                
フンボルト大学

Photo_11

マップと向きが逆になってしまいますが、こうして比べてみると懐かしい・・・。Brandenburger Tor に一番近い建物は、「いかにも共産圏~」という風情ですが、彼らがよく言っていた「Bruderländer (兄弟国)」の大使館だったのですね。納得。当時、これらには全く興味がなく(文化的価値の高い古い建造物にばかり目が行ってた、という意味です)何だったか全く覚えておりませんでした。

それにしても懐かしいですね。よくベルリンの友人から Du würdest Berlin nie wiedererkennen. (今のベルリンに来たとしても、絶対にもう昔の姿は思い出せないよ) と、よく言われます。そのくらい一変してしまったんでしょうね。

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9月6日 訂正:

す、すみません~ 上の「国民教育省」、最初は「国防教育省」と書いておりましたが誤りです。DDRって、「Volks-」の言葉をつけるのが好きみたいで、Volkspolizei (人民警察)とか Nationale Volksarmee(国家人民軍)とか、いろいろありました。個人的には「人民」と訳してもいいのかな、という気もするのですが、小学館の独和によると「国民教育省」となっております。見つけてくださった方、ありがとうございますm(_ _)m  当ブログを読んでくださる方々、もし私がアホな間違いをしていましたら教えてくださいね♪

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懐かしのDDR (その4 ドレスデン)

DDR(旧東ドイツ)でもっとも有名な都市といえばベルリンですが、ドレスデンもその次くらいに人気の観光スポットでした。私がDDR を訪れるきっかけとなった友人はマイセン在住だったので、彼女の家からドレスデンへもよく行きました。

ところが!「エルベ川の真珠」だと聞いていたので、それはそれは楽しみにしていたのですが・・・。確かに建物も博物館も宮殿も立派!!圧巻!!だけど とにかく真っ黒。ドレスデン爆撃の影響でしょうか。(後ほど追記:ブログに来てくださった方に伺ったのですが、石に鉄分が含まれていて、それが月日とともに黒ずんでしまうんだそうです)一つ一つ石を拾って再建した、と聞いたのですが、それにしても全面的に真っ黒・・・。最近再建された聖母教会と同様、新旧の石が入り混じる「まだら状態」ではあるのですが、新しい石まで黒ずんでる・・・。西ドイツの人からは、冗談半分で「東ドイツは環境対策が遅れていて、質の悪い石炭を使っているから全てが真っ黒なんだよ~」と聞いておりましたが、それもあながちジョークではなかったのかな、とも思ったり。見事な建造物の数々に感銘を受けるというよりは、とにかく痛々し映り、見ていて辛かったです。

Semper Oper (ドレスデン歌劇場)はDDR のメンツもあったし、貴重な外貨獲得源でもあったのでしょう。再建され、きれいに手入れされていました。夜になるとDDR の建造物にしては珍しくライトアップされ、ため息が出るような美しさ。(ただし、DDR の人はめったに券を買えなかったそうな。)Zwinger (ツヴィンガー宮殿)も見事でした。そのほかにも美術館、博物館と見どころ満載。でも資金難は深刻だったのでしょうか。その他の建造物のメンテナンスまでは手が回らなかったのか、とにかく痛々しいの一言でした。教会などは中に入ると祭壇もボロボロ。上述の Frauenkirche (聖母教会)も当時はガレキの山。戦争を忘れないためのモニュメントというよりは、たんに財政難で放ったらかし、という印象も受けました。繁茂していた雑草が風になびき、物悲しく見えたものです。

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さて、せっかくドレスデンに来たのだから 素敵なカフェでアウグスト強王の話でも聞きながら美味しいケーキでも・・・と思っても、カフェの類は長蛇の列(共産圏名物の行列)か、閉店(Geschlossen)か、休業日(Ruhetag)。このあたり、前にも書かせていただきましたので、よろしければご覧になってみてくださいね。

DDR について (過去の記事) よろしければ、コチラも・・・

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ドレスデンの名所の写真はネットや書籍でいくらでも手に入ると思いましたので、当時の様子が分かる写真だけを載せさせていただきました。もっと面白い写真もあったように思うのですが、実家に置いてきてしまったみたいです。あとは私がどどーーーんと映っていたりして、お目を汚すのはあまりにも申し訳なく・・・。

Dresden_kirchen_
こんな感じで真っ黒でした。この写真から20年を経た現在も、写真を見るかぎり黒っぽさは残っていますが、でもこれほどでは。再建はもちろんのこと、汚れをきれいにするにもお金がかかるのでしょうね。左が確か、Residenz (レジデンツ)、右が katholische Hofkirche (カトリック宮廷教会)。

Dresden_kirche_1
とにかく真っ黒で痛々しいばかり。これもカトリック宮廷教会。

Kirche_1
これも同じ教会かな? 横から見た図です。

Semperoper_1
Semperoper は美しいですね。再建が完成したのが1985年ということですから、完成直後ということになります。きれいな写真ですね~絵葉書じゃないっすよ~。 私ったら、つい自画自賛。あの頃はまだ本物のガス灯があったんですよ~。そうそう、マイセンの友人が「一度でいいから、あそこで音楽を聴きたい!」と言っていました。その夢は統一後にかなったとか。

Semperoper_2
Semper Oper の前の駐車場じゃないかなぁ・・・・。トラビに混じって西側の車がかなり停まっています。

Zwinger
Zwinger宮殿の前。トラビや東製のバンが見えます。バスのお尻も映っていますね。

Frauenkirche_2
Frauenkirche_dresden 先日も載せさせていただいた、夕日を浴びる Frauenkirche (聖母教会)のガレキ。まさか再建されて→ こんな美しい姿によみがえることになるとは…。当時は思ってもいませんでした。とにかく再建にはお金がかかると聞いていましたので。

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Kügelgenhaus (キューゲルゲン・ハウス)という、由緒あるところでランチかお茶をしたようです。字が読めないので何を食べたか分かりません・・・残念!検索したところ、ここは博物館となっているのですが、食べる場所もあったのかな?記憶が曖昧でして・・・。なお、旧東独時代、この所在地は Straße der Befreiung (開放通り)という、いかにも共産圏な名前でした。統一後は元の Hauptstraße (中央通り) に戻っています。

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2006年9月 2日 (土)

懐かしのDDR (その3 ベルリン番外編)

ベルリン編の番外編です。あまり面白くないかもな~と思ったのですが、せっかくスキャンしたので、載せさせてくださいね。最新のベルリン事情には疎いのですが、お詳しい方が今と昔を比較できたら面白いかな、と思いまして。写真をクリックしていただくと、大きくなります。

Ost_berlin
ペルガモン博物館前。トラビや共産国っぽい車が整列しています。旧DDR の大都市は「いかにも共産国」って風情で、とにかくメインの道路がだだっ広い。やたら周囲が見渡せ、建物が点在しているっていった感じでしょうか。一歩奥に入ればゴミゴミした建物密集地になったりもするのですが。ベルリン独特のHinterhof (間口が狭く、奥行きが大きい造りですね。何と訳せばいいのかしら・・・)もたくさん見られました。

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ベルリンの市電です。運賃は忘れてしまいましたが、おそらく20ペニヒくらいだったんでしょうね。切符はコレ↓
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歴史博物館の絵葉書↑

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素人向けの撮影許可証みたいですね。50ペニヒ払うと館内の撮影が許可されたみたいです(まったく記憶ないのですが・・・)。

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で、これが入場券。50ペニヒですって。安い!

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こういう博物館にも行ったみたいです。(まったく記憶ないのですが)フンボルト大学内にある自然博物館っぽいものみたいです。

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アルバムの記録によると、検問所でもあったフリードリヒシュトラーセ駅から西ベルリンのツォー駅まで西ドイツのマルクでDM2.70かかったようです。東から西へ戻る際、フリードリヒシュトラーセ経由で帰るのがもっともポピュラーだったような。その際、乗車券は西側のお金で買わなければいけませんでした。いかに DDR が外貨を欲しがっていたかが、うかがえますよね。しかも高い!東ベルリン市内だと上に記載されているように、20ペニヒぽっきり。東ベルリン⇔ポツダムでも 30ペニヒなのに、どーしてお隣の西ベルリンに行くのにDM2.70も取るの?!? こりゃボッタクリでっせ。こうして2種類を一緒に貼ってあったということは、恐らく当時の私も怒っていたんでしょうね。記憶はないのですが。

Ostberlin_stadtplan
ちょっと見にくいのですが、ご参考までに。1987年の「地球の歩き方」が本棚の奥で眠っておりましたので、20年近い眠りから覚めていただきました。地図の部分をスキャン。

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古い写真ばかりで失礼いたしました。思い出話をしたい、というのではなく ドイツには確かにこういう時代があった、ということを私も再確認したいなぁ~という思いまして・・・。「その4」ではドレスデンの古い写真をご紹介させていただこうと思っております。ご興味がある方、お寄りいただければ幸いです。

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懐かしのDDR (その2 ベルリン)

日数の限られたDDR 滞在だったのですが、東ベルリンへは幾度となく足を運びました。西ベルリンから日帰りで行ったときもありましたし、東ベルリンの友人宅に泊めてもらったこともありました。首都だけあって、それなりに交通も整備され、物資も比較的(あくまでも“比較的”)豊か。博物館など文化面でも充実しており、飽きない街でした。写真をクリックしてみてくださいね。トラビなども大きくなります。

Fernsehturm
東ベルリンのシンボル、テレビ塔。周りはガラガラだったのですが、今はどうかな。エネルギー不足のためか、照明が少なかったです。ネオンなどもないため、夜は暗かったなぁ・・・。

Fernsehturm_2
スキャンした際、ちょっと曲がってしまいました。テレビ塔の入場券です。5マルクは高い!だってベルリン⇔ポツダムの電車賃が30ペニヒなのにテレビ塔に上るだけで5マルクなんて・・・!当時のベルリンっ子たちは「上らないよー見るだけ、見るだけ♪」と言っていました。

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「赤い市役所」。トラビがたくさん停まっています。

Brandenburger_tor
Brandenburg 門。東ベルリンへの日帰りツアーで行かれた方も多いと思います。この光景、懐かしいですよね。

Unter_den_linden
かの森鴎外もめでた(?)ウンテルデンリンデン。左右にはやっぱりトラビ。

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西ドイツで買った、東ベルリンを写した絵葉書。右手に見える建物、いかにも共産圏という造りですね。今はどうなっているんでしょうか。

 

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ガラス窓に大聖堂が映っています。9月2日朝追記:kio さんが教えてくださいました。このガラス張りの建物は、Palast der Republik (共和国宮殿)。アスベストたっぷりの建物だそうで、現在 取り壊し中とか。今となっては貴重な写真ですよね・・・。そういえば、茶色いガラスがやたら光を反射する異様&悪趣味な建物があったことを思い出しましたが、それがコレなのかしら?写真だと美しく見えますが・・・。

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Kaiserwilhelmgedaechtniskirche_1  東では買いたい物が本当に見つからないのです・・・。でも、両替したOstmark(東ドイツマルク)は国外持ち出し厳禁(建前だそうですが、私は当局が怖かったので、一応規則を守っていました)。とにかく何かを買わなきゃ。ベルリンでは生写真を加工したカードが売られていたので、それを買いました。なぜかカイザー・ヴィルヘルム記念教会の戦前の姿の写真も。西側なのにね。戦争で破壊され、そのままの姿で保存されている、あの有名な教会です。戦前はこんなに美しい教会だったんですね・・・

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2006年9月 1日 (金)

懐かしのDDR (その1 入国)

もうだいぶ前になりますが、旧東ドイツ(正式名称 ドイツ民主共和国、DDR)の友人宅へ何度か旅行した際のことを書かせていただきました。この夏休みに実家へ行って、古いアルバムを何冊か持ち帰りました(ほんの一部。私ったら、お給料を全部現像代に当ててたんとちゃうかーというくらい、写真ばっかり撮っていました)。そのうち、壁が崩壊し、東西ドイツが統一された現在になっては もう見られないものをピックアップし、スキャンしてご紹介させていただければと思います。ご興味がおありの方、読んでいただければ幸いです。DDR(東ドイツ)について その1なお、記憶を頼りに書いておりますので、何か間違いを書いているかもしれません。お気づきの点がありましたら、そぉ~っと教えてくださいね(笑)

<入国について>

出張や観光の場合、Interhotel という指定のホテルに滞在しなければなりませんでした。もちろん、価格は西並み。宿泊料金も西の通貨で支払います。しかし友人宅に泊めてもらう場合は、以前にも書かせていただきましたように、別に申請する必要がありました。これがその申請書です。私が最後にDDRへ行った際(1989年10月)、コピーを取っておいたものです。 個人情報が含まれますので、ほとんど消させていただきました・・・。代わりに我が家のワンコありちゅんがサインとハンコをぺったん。必要事項を記入し、Reisebüro der DDR (DDR旅行会社)に郵送します。すると、審査の後に、ビザを取得するための文書が送られてきます。ちなみに、審査料として30ドル請求されました。

Reiseantrag__2

Reiseantrag_1

申請内容は:氏名や住所、パスポートの番号など/勤め先・職業/滞在予定日、滞在先/受け入れ先(友人)の氏名・住所・ID番号/署名 など。

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これが、その書類に添付されていたものです。ビザを受け取るための文書を1通、同封した云々ということが書かれております。私ったら、肝心の文書のコピーを取っていなかったんですねーーーあ~惜しいことをした。

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この書類を持って、申請しておいた日に国境へ行くと、国境審査の後に滞在ビザのスタンプをパスポートに押してもらえる、というシステムでした。ビザを発行してもらうのに、さらに15DM。とにかくやたら外貨を請求されました。なお、受け入れ側もあらかじめ当局に「誰それをいつからいつまで滞在させる」という申請を出しておかなければなりません。また、友人宅に着いたら、最寄の役所に出向く必要がありました。「ブジ、到着しました~。私はスパイではありませんよ~」と届けるわけです。

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なお、慢性的な外貨不足に苦しんでいたDDRは、外国人旅行者(日帰りでも)に1日最低25マルクの Mindestumtausch (両替)を義務づけておりました。入国審査の際、一緒にStaatsbank (国立銀行)で両替もしたと思います。為替のレートは、実態を全く無視した 1対 1。実際の価値は、1対4だった、いや1対10 だ、とか色々言われておりましたが、とにかく東のマルクに対する信頼はゼロ。だってDDR自体が自国の通貨を信頼していないんだもん。矛盾だらけのDDR。

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アルバムにべったり貼り付いてしまい、はがれなかったのでスキャンできませんでした。写真で失礼します。こういう風に手書きのところもあれば・・・

Staatsbank_2
・・・一応、コンピューターっぽい処理をしてくれるところもありました。これは6日分、DM25×6=DM150 ですね。

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<入国後>

いったん東ドイツの中に入ると、とにかく物価が安くてビックリします。特に「日常生活において必要なもの」の価格は非常に低く抑えられていました。ただし、この「日常生活に必要」という定義が我々の定義とは全く異なり、コーヒーやカカオたっぷりのチョコレートはもう「必要品」ではないのですよね。一方、鉄道や市電などは本当に安かったです。P8310036
マイセン⇔ライプチヒが107キロメートルで10マルク10ペニヒ。西ドイツのDM と交換レートが1対1だとしても、当時の為替レートで800円くらい。

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アルバムに私が書いた文字が残っています。ベルリン⇔ポツダムがS-Bahnで30ペニヒだったそうです。当時の為替で円換算すると、24円! 今はいくらなんでしょう?

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下のピンクのチケットは、確かドレスデン⇔マイセンでした。1マルク。円換算すると、当時のレートで80円。

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Boulette_mit_bort_1
DDRの地方都市は悲惨な状況でしたが、ベルリンは首都というメンツもあり、それなりに充実しておりました。駅に Imbiss (立ち食いの食堂みたいなもの) もありました。Mitropa という名前のお店。アルバムに私が書きこんだ当時の記録によると、上のメニューは : Berlin Schöneweide 駅のMitropa で食べた「Boulette mit Brot」 85ペニヒ。Boulette は地方によってはFrikadelle とか deutsches Beefsteek とも呼ばれますが、いわゆるハンバーグです。それにポテトサラダ・ニンジンサラダがついていますね。85ペニヒは、当時のレートで68円くらい。

*Mitropa については、また別記事で書かせていただきたいな~と思います。1916年に設立された会社で、「日本食堂」みたいに、鉄道で食べ物を提供していた会社です。東西ドイツに分断した際、DUDEN みたいに東西で別々の会社に分かれたそうです。だからDDR でも Mitropa という看板を見かけたんですね。

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2006年8月12日 (土)

DDR (東ドイツ)の言葉 その2

私の趣味で、ついついDDR(東ドイツ)の言葉を再びUPしてしまいました。今日、初めてこのブログに来てくださった方、よろしければコチラもご覧になってみてくださいね。

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Aktuelle Kamera:こ、こ、これです、私が見た東ドイツのテレビの番組は。昨日ご紹介した、この辞書によりますと「東のTagesschau」。Tagesschau は日本でもZDFがない時などにBSで放送されていますよね。第一放送(ARD)のニュースです。「Aktuelle Kamera」は私も数回しか見たことがないのですが、党の賛美と、西の悪口ばかりだった記憶が。悪口の内容とは、「暴力沙汰が多い」「人々の心が荒廃している」「失業率が高い」「男女が不平等」といったものだったと思います。

Beschwerdebuch:直訳しますと「クレーム帳」でしょうか。辞書だと「苦情記入簿」という訳が載っています。これが、DDRではGästebuch der Gaststätte (レストランのゲストブック)と同義語だとか。皮肉ですよね。普通、Gästebuch といえば、「美味しかったです★」とか「また来ますね~♪」といったことを書き込むのですが、DDRでは「不味かった」「たまには豪華なメニュー用意しろ~」「品切れ、品切れと言うな~」といった書き込みばっかりだったんでしょうね。

Plaste und Elaste :Plaste のほうは、今回ドラマに出てきました。プラスチックを西側ではKunststoff と言いますよね。でも、東ではPlaste と言ったそうです。西側の人は、これを聞いて「???」状態に。 Elaste は、本来は「弾性プラスチック、伸縮性合成樹脂」の意味だそうですが、東ではゴムを指すとのこと。

HO(Handelsorganisation):このマーク、あちこちの店で見かけました。なんとなく垢抜けないこのマークを見ると、なぜか気分が滅入りました・・・独和辞書によると、「(東独の)国営小売商店」とあります。食料品店などが典型的な例のようです。

Brause:これは、このOst-West-Woerterbuch に載っていたわけではないのですが、つい最近、ドイツに詳しい方のお話を伺って思い出しました。西側では、炭酸飲料のことをLimonade、略してLimo と呼びますよね。東の友人たちは Brause と呼んでいました。ウィキペディアによると、Brause は東部ドイツの中部ドイツ語を話す地域では、Limonade と同義語だとのこと。ちなみに「シュワシュワ」っと溶ける粉末状のソーダの素、あれをドイツでは Brausepulver と呼ぶそうで、19世紀から存在したそうです。

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今日、検索していて偶然、下のサイトを発見。DDR関連のグッズが買えるサイトみたいです。おぉ~ 私も欲しい!日本まで送ってくれないのかなぁ~ もし興味がありましたら、ご覧になってみてくださいね↓

DDRグッズのネット販売

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2006年8月11日 (金)

DDR (東ドイツ)の言葉 (その1)

今回、東西ドイツが出てくるコメディに出会いましたが、その際 なつかしのDDR-Woerter が何個も出てきました。原稿は既に一昨日 提出してしまったのですが、ちょっと気になって幾つか調べてみたところ、面白いサイトを偶然発見。個人の方が作られたサイトのようです。DDRにご興味のある方は、ご覧になると面白いかも。

Das Ost-West-Woerterbuch

そのうちの何個かを紹介させてくださいね。順序は適当です。私が「おぉっ」と思ったのを勝手に拾わせていただきました。

Broiler:今回、ドラマの中で出てきました。この辞書の定義によると「焼いたチキン。東側で知られていて西側で知られていない、数少ない英語が語源の言葉の一つ」。ドラマでも、東側の店員から「その料理はブロイラーを使ってます」みたいなことを言われ、西側の登場人物は何のことか分からず、きょとんとします。日本人は「ブロイラー」という言葉を知っていますが、西ドイツ人は知らなかったんですね。

drei Viertel sechs:これ、DDRの友人がよく使っていました。私は何のことか分からず「??」となってしまったのをよく覚えています。6時15分前なんです。分かりにくいですよねーーー あえて直訳するなら、「6時まで45分過ぎた状態」でしょうか。西側なら、Viertel vor sechs (6時15分前)と言うところです。友人たちは、確かにこの言い方をしていました。辞書によると、この表現は西ドイツ人にも通じないとか。

Viertel sechs :これは5時15分。これも、西ドイツの人々には分からない表現だとか。直訳しますと、「6時まで15分過ぎた状態」でしょうか。西なら、Viertel nach fünf (5時15分過ぎ)といいますよね。

drüben:これは本来「あっち」という意味ですが、DDRでは「壁の向こう(=西ドイツ)」という意味で使われていたとのこと。私もよく聞きました。なぜか日本人の私に尋ねるのです。「あっちの生活ってどうよ?」「あっちのジーンズって、どんな感じ?」という風に。なお、この辞書によると、東西が一緒になった今では旧西側を指して「bei uns - drüben(ここ、「あっち」では)と使うそうです。なんだかヘンなところが面白い。

DDR と BRD:東ドイツのことを「ドイツ民主共和国」の頭文字「DDR」で呼んだのはよく知られています。この言葉は、西の人も東の人も使っていました。ところが私が知る限り、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)のことを頭文字「BRD(東の発音だと、“ベー・エアー・デー”と聞こえました)」で呼ぶのは東ドイツだけだったような・・・。これはこの辞書には載っていなかったので、何ともいえないのですが、どなたかお詳しい方いらっしゃいますか? 西ドイツの人たちは自分たちの国を よく「Bundesrepublik」とは呼んでいたように記憶していますが、「ベー・エアー・デー」は東限定だったような。

Grilletta:今回、ドラマに出てきました。私はてっきり、「グリルしたソーセージ」のことかと思っておりました。この辞書によると、いわゆる「ハンバーガー」を意味するんですね。Hamburg という西の地名は使いたくなかったのかな。私は「ソーセージ」と訳してしまったので、仮ミックスの訂正時に訂正をお願いしないと・・・。

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こうしてみると、DDR 特有の言葉もたくさん。また幾つか挙げさせてくださいね。

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2006年7月30日 (日)

Trabant (トラバント)

トラバント(Trabant)、愛称トラビが出てくるドラマに出会ったので、ちょっとトラビについて書かせてくださいね♪ トラビをご存じない方もいらっしゃると思います。旧東ドイツの自家用車です。DDR時代は あちこちで見かけました。コレ↓に詳しい情報が載っています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%88

私もDDRに遊びにいった際、友人のトラビに乗せてもらい、Hiddensee という北端に近い島までドライブしました。バタバタバタバタ・・・と轟音(?)をたて、荒れたアウトバーンを時速100キロで疾走。怖いのなんのって、も~生きた心地しませんぜ。途中で車両がバラバラになるんじゃないか、マンガじゃないけどウワモノが吹っ飛んで車台だけになるんじゃないか、とか。

車の翻訳となると、樅の木さんやAutyさんの専門分野ですよね。私は詳しくないので、日独の Wiki から抜粋。

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Trabi の製造元:VEB Sachsenring Automobilwerke Zwickau
VEB・・・当時、東ドイツのあらゆる企業にこれがついていました。Volkseigener Betrieb。「国営企業」ですね。無理に訳すと「国営企業ザクセンリング自動車製造会社、在ツヴィッカウ」かな。映画「トンネル」でも出てきました。主人公の妹の夫が、確かここに勤めることになりましたよね。

製造年、製造台数:1957年~1991年 の間に製造された台数は 3,051,385台とのこと。34年間でこの数ってどうなんでしょう?年間10万台弱ってことですよね。

私、車の性能などについては詳しくないのですが、言葉にはとても興味があります。Wikiによると、「トラビ」のほかにも様々な呼び名があったとか。自嘲的なものが多いようですが。「ダンボールでできている」という噂がありましたが(私も信じていました)実際は樹脂製だったそうです。DDR時代のベルリンで、友人のトラビの隣にアウディのスポーツ車が停まっていたのを見たことがあります。その友人は、若いのにマイ・トラビを持っていたのが自慢だったのですが、その自慢のトラビが霞んで見えて、何とも気の毒&気まずい空気が流れたのを覚えています・・・

Trabbi:トラビ(トラバントから来た愛称ですね)
Rennpappe:直訳すると「走るダンボール」
westsächsischer Lumpenpressling:西ザクセンのオンボロ・プレスリング・・・「プレス」はガラクタをプレスして作ったという意味なのかな?「リング」は「ザクセンリング」をもじったんでしょうね。
Gehhilfe :「歩行の補助」・・・歩く手助け程度にしかならない、って自嘲的な呼び名?
überdachte Zündkerze :「屋根つき点火プラグ」
Zwickauer Hangziege :「ツヴィッカウのヤギ」?Hang は「斜面」だけどこれは意味不明。
Asphaltblase :「アスファルトの泡? アスファルトの膀胱?これも意味不明。
Fluchtkoffer :「逃亡用トランク」 DDRから逃亡する際、これに隠れて国境越えを試みたからかな?)
Arbeiter- und Bauernmercedes :「労働者と農民のメルセデス」笑える!
Plastikbomber bzw. Duroplastbomber :「プラスチック爆撃機」?「Duroplast」は不明。どなたかご存じの方、お教えください。
Golf des Ostens :「東のゴルフ」(VWのゴルフは若い人の憧れだったもんなぁ~
DDR-VW :「DDRのフォルクスワーゲン」(うーん VWはもともと「国民車」って意味だもんなぁ。)

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2006年5月12日 (金)

DDR(ドイツ民主共和国~東ドイツ) (その7)

長々と個人的なお話を書きまして失礼いたしました。読んでくださり、ありがとうございます。私ったら調子に乗って、「DDR 番外編」も書いてしまいました~。また後日 ちらっと公開させてください・・・。しつこかったかな?

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豊かさの象徴 アメリカ

今回、DDRネタを書こうと思いつき、久しぶりに「グッバイ、レーニン!」を見直しました。改めて見てみると、「うん、うん」とうなずいてしまうことばかり。コカ・コーラの巨大垂れ幕が窓から見えちゃうシーンがありましたよね。コーラはやっぱりアメリカの象徴であり、東ドイツ人の憧れだったみたいです。

プレンツラウという町に住んでいた友人は、アメリカに憧れていました。彼の部屋に鎮座するのは、なんとガラスケースに入れられたコーラの空き缶。チェコに旅行したときに買ったそうです。(チェコは比較的規制が緩かったのか、コーラが買えたんだそうな)コーラの空き缶をケースに入れて飾っているのが物悲しかったです。

「誕生日に何が欲しい? デュッセルドルフから送るよ~」と尋ねると、彼は「マイコー(マイケル・ジャクソン)の『Bad』のLPがいいな」。で、出たばかりのLPを厳重に梱包して送りました。LPはオッケ~だったのですが、一緒に梱包したマドンナのカセットテープが検閲に引っかかってしまいました。マドンナがNG だったのではなく、カセットテープが NG だったのです。なぜLP がよくてテープがダメなの・・・?? 情報を暗号化して吹き込む可能性があったからでしょか。とにかく荷物は開封されて送り返されてしまったので、テープを抜いて送り直しました。

ジーンズも羨望の的。西側に親戚がいる人は、誕生日などにジーンズをリクエストすることができましたが、親戚がいない人は本当に気の毒。共産圏の人たちはジーンズに憧れている、というのは有名な話でしたが、それを肌で感じてきました。

DDR がらみの映画では、よく「echter Bohnenkaffee」という言葉が出てきます。「ああ、本物のコーヒーだわ。美味しい~」みたいに。DDR では Ersatzkaffee (代用コーヒー)が一般的でしたので、本物のコーヒー豆は貴重だったのでしょうね。Jakobs のコーヒーなんて、そりゃーもう大人気。

Intershop

当時、DDR の大都市なら必ずあった「インターショップ」。自国の通貨は使えず、外貨でしか買えない店。DDR に来ている観光客だけでなく、西の親戚などからもらった外貨を持っているDDRの一般市民もターゲットだったと聞きました。地元のデパートでは何も買いたいものがないのに、インターショップでは西の魅力的な品物がゴロゴロ。「せっかくだからインターショップに行こうよ。あなたと一緒なら入りやすいから。」とDDR の友人に誘われ、インターショップに入りました。

「ほんじゃま、話のタネに・・」と思って入りました。ところが!ディオールの口紅とかシャネルのタコ焼きシャドウとかが、なぜか西より気持ち安めに売っていたのです・・・!当時若かった私は(←私ったら しつこい)、「げげっ。欲しかったカラーが売ってる・・・しかも西より安い!お土産に買っちゃおうかな~」と思ってしまったのですが、でも DDR の友人の目の前で西ドイツマルク札を財布から取り出すことは、やっぱりできませんでした。

DDR の友人は、「ひょえ~~高い~ こりゃ、セレブの店だね。(セレブという言葉は当時なかったけど)」と言っていましたが、西側の人間からすると「口紅が25DM するのは当たり前だし、ブランドのセーターが100DM で買えるなら安いもんだわ。」と、つい思ってしまうのです。でもその友人は、「こういった品は『ぜいたく品』であって、西側の人間だってこんな物は買えないはずだ」と思い込みたい雰囲気でした。

共産圏の優等生

それでもDDR が、ちまたで言われるとおり「共産圏の優等生」だと感じたことがあります。プラハやブダペストなどを旅行すると、路地裏で「チェンジモネー、チェンジモネー」と、両替を迫られることが何度かありました(同じ経験を持つ方、きっといらっしゃいますよね)。それでもDDR では一度もヤミでの両替を頼まれたことはありませんでした。やはり「Ordnung (秩序)」を重んじるお国柄。みんなきちんとしていて真面目一筋。危ない目にも怖い目にも遭わず、本当に困ったのは開いているお店がなくてひもじい思いをしたことくらい。

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2006年5月11日 (木)

Sandmännchen (ザントメンヒェン)

読みづらいかもしれないので、字のサイズを大きくしてみました。

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先日、東ドイツのTV の記事で ちらっと触れたSandmännchen 。これについて、kio さんが詳し~く書いておられます。読んだとき、「おおおおおぉぉぉ~」と感動してしまいましたので、皆様にも感動をおすそわけ。(って、Sandmännchen でこんなに感動するのは私だけでしょうか?)

http://home.att.ne.jp/apple/berlin/baustelle/BAUSTELLE/Bau.sandmaennchen1.html

kio さん、ありがとうございます!

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DDR(ドイツ民主共和国~東ドイツ) その6

読んでくださる皆様、個人的な思い出話ばかり書いてしまって すみません。「そんなの知ってるよー」と思う方も多いと思います。ドイツ映画は東西関係や統一後の問題ぬきには語れないですよね。それでつい、力が入ってしまいまして・・・。あともう少しで終わりますので、お付き合いいただければ幸いです(^^)

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壁の崩壊

86年、87年、88年の東ドイツは比較的平穏でした。私は88年に一度日本へ帰ったあと、89年の10月に1ヶ月ほどドイツへ旅行しました。まさに壁崩壊の直前、「グッバイ、レーニン!」でお母さんが倒れる直前の時期です。西も東も様子が変わっていました。

西側ではテレビで連日、西に逃れてくる東ドイツ人たちの姿を映し出していました。その数も日ごとに増えていきました。そして私は1週間ほどの予定で東ドイツへ。確かベルリン経由で東に入ったと思います。

東ドイツでは、さらに雰囲気が変わっていました。ベルリンではライプチヒと同様、毎週月曜日にデモが行われていました(映画にもありましたよね。)。その拠点となっていた教会に行きましたが、ちょうどデモの翌日で、一件平穏に見えるものの、路上にはロウソクを灯した跡があちこちに残っていました。(確かゲッセマネ教会という名前だった記憶があるのですが、このあたり定かではないです・・・うーん。どこだったっけ。)

その後マイセンへ行くと友人いわく「去年 紹介した●●ちゃん覚えている?あの子、プラハ経由で西に逃げてしまったよ」別の友人も「私のお兄さん、フィアンセと一緒に西へ行っちゃった。お母さんは毎日泣いているの。」 どう言葉を掛けたらいいのかも分からず、何とも言えない気分になったのを覚えています。

後ろ髪を引かれる思いで日本に帰ってわずか数日後、壁が崩壊。ドイツ系の金融機関に勤めていたのですが、先行き不安からフランクフルト市場ではドイツの株や連邦債が投売りされ、軒並み値下げしていく様をモニターで眺めておりました。ドイツ人のトレーダーたちも、この先どうなっていくか分からないと言いながら不安げでした。それがあっという間にドイツ統一。東ドイツにいる友人たちはどうしているんだろう、ととても不安に思ったのを今でも覚えています。

Ein Volk 一つの民族

P5070017 

統一後、勤めていた金融機関を通して買ったメダル。刻印されている文字は:

"Keine Mauer kann ein Volk ewig trennen (壁は一つの民族を永遠に隔てることはできない)"

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これを書いていて思い出しましたが、統一直前に繰り返されたデモのスローガンは、最初は「我々にこそ主権があるのだ」の意味を持つ、

"Wir sind das Volk.(我々こそ、人民だ)"

・・・でしたよね。それが

"Wir sind ein Volk.(我々は一つの民族だ)"

・・・に変わっていったんでしたっけ。「ein Volk」とは、さまざまな意味を持つ、非常に重い言葉です・・・ (解釈が違っていたら教えてください。)

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2006年5月10日 (水)

DDR (ドイツ民主共和国~東ドイツ) その5

東ドイツのテレビ

当時、友人から「東独フリーク」と言われてしまうくらい、東ドイツばかり旅行しておりました。前にも書きましたように、別に東ドイツにのめりこんでいたからではなく、行くたびに友人が出来てしまうからでした。西ドイツ人も人懐っこい人は多いですが、東ドイツ人の特に若い人は、外国人との交流に飢えていたような印象を受けました。西側の人々との接点が少なかったから当然ですよね。

先日も書きましたように、当時あちこちに黒縁メガネをかけたホーネッカー議長の写真が飾られておりました。ところが若い東ドイツ人たちは、「あんなの見なくていいからね。ありゃ詐欺師、ペテン師だよ。」

今でも印象に残っているのは、東ドイツのテレビです。西側に近い地域では西の放送を受信することが可能でした。(妨害電波などが出ていなかったのが不思議。)友人いわく、「東の人間は、西の番組しか見ないよ。せいぜい子供がSandmännchen (ザントメンヒェン:東ドイツの子供向けTV番組の人形。垢抜けていないのが、かえってカワイイ。「グッバイ、レーニン!」でも出てきましたね。噂によると、最近また人気が出てきたとか・・・ホントでしょうか?)を見るくらいかな。」

ところが私には東ドイツの番組がとても珍しく映りました。「グッバイ~」でも出てきたように、DDRのテレビのニュースったらウソっぱちばかり。ちょうどその日はアメリカの株価が大幅に下げた日でした。政府お抱えのコメンテーターが誇らしげに「ほら、私がかねてから言っていたように、いよいよ資本主義経済が崩壊を始めました~~~DDRバンザーイ」みたいなことを言っていました。翌日、株価はすぐに持ち直しましたが。その後、西ドイツに戻ってからしばらくして、かの有名なブラックマンデーが起きました。あのコメンテーターは さぞかし勝ち誇った様子でコメントしていたでしょうね。(見られなかったのが残念。)

また、サンフランシスコで大地震が起きたときも ちょうど東ドイツにおりました。そのときも同じコメンテーターが「ほれ見たことか~」と、不謹慎な内容をコメントしていたのを覚えています。そして橋が崩れて車を直撃する気の毒な映像をこれでもか、これでもかと垂れ流していました。

自由のありがたみ

1週間ほどの滞在を終えて西側に戻る日、毎回どの友人も駅で泣いてくれました。それは別れが悲しいからではなく、「あなたは国境を越えられるけど、私は越えられない」からでした。「自由な世界へ戻っていく人を見送ることほど辛いことはないのよ」と。監視と規制でがんじがらめの東ドイツの人たちが心から気の毒に思えたのを覚えています。ところが一方で、私は密かに安堵していました。友人たちと過ごした日々は楽しかったのですが、陰鬱で不便な東ドイツの日々は正直なところ、日本人の私には ちょっと苦しかったのです。 "Ich komme wieder~(また来るね~)!″と言いつつ、複雑な気持ちでした。

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2006年5月 9日 (火)

DDR(ドイツ民主共和国~東ドイツ) その4

いつも読んでくださり、本当にありがとうございます。毎日張り切って更新したりなんかして、そのうちネタが尽きるのではと心配・・・。明日から本業で忙しくなるのですが、実は連休中に記事を書き溜めてしまいました。できる限り更新するぞー!と萌えて・・じゃなくて燃えております。お付き合いくださり、感謝いたします。なお、DDR話は 「その7」まであります・・・。

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東側の実態

鉄道で西から東へ向かうには、何通りかルートがありました。私もそのうちの幾つかを試しましたが、そのうちの一つがハノーファー発~マクデブルク経由~ライプチヒ終点だったような記憶があります。そこで清潔この上ないDB(Deutsche Bundesbahn、ドイツ連邦鉄道)の車両を降り、埃まみれのDR(Deutsche Reichsbahn、ドイツ国有鉄道)に乗り換えてドレスデンへ向かい、さらにローカル線でマイセンへ。

「マイセンへ行く前に、Kiosk かImbiss で何か買って腹ごしらえするぞ~♪」と思っても、そんな店ありゃしない。結局、予備に持っていたビスケットをモソモソかじって飢えをしのぐハメに。

ひもじい思いをしながらトボトボとホームを歩いていると、友人が迎えに来てくれていました。彼女はすぐ私のことが分かった様子。当然ですよね、ほかに黒髪のアジア人なんていないもの。

再会を祝してレストランで食事しようにも、店はことごとく「Geschlossen(閉店)」か「Ruhetag(休業日)」。唯一開いている店も長蛇の列。仕方なく、家で何かを作ろうという話になり、スーパーマーケットに行きましたが、商品の陳列棚はガラガラ。品不足は深刻でした。

なお、20年前の東ドイツの家庭には電話が少ししかなく、私たちは事前のやりとりを電報で行っておりました。電話がある家庭は「Beziehung (コネ)」がある家。でなければ、10年以上前から申請して、ようやくついた家とか。別の友人はお母様がお医者様だったため、優先的に電話をつけてもらえたと言っていました。

同じことが自家用車にも当てはまりました。トラビがあるのはコネがある家庭か実力者。でなければ、10年以上も前から申請していた家。「え?3年でトラビが来たの?」と驚いたのは、「グッバイ、レーニン!」のお母さんでしたね。

日本の小娘(←しつこいようですが、当時は若かった!)の目にも、東ドイツは不平等な社会に映りました。マイセンの友人は兄とともに大変優秀だったのですが、何年待っても大学へ進学できませんでした。「空きがない」との理由だったそうですが、彼女いわく「Vati ist dickköpfig...(パパが頑固だから・・・)」。なんでも、国営企業に勤めるお父さんが上司にたてついてしまったそうです。上司は党に太いパイプがあったらしく、それ以来嫌がらせばかり受けているとか。4人家族でしたが、狭い団地に住んでいました。もっと広い住居に移りたいと長く申請していたそうですが、なかなか願いはかなわず・・・(作り話ではありません。彼女や彼女の家族から聞いた本当の話です)だけどお母様がお医者様である別の友人は、待たずに大学へ進学。同じ地域に住み、希望する専攻も同じ化学でした。

日本から初めて西ドイツへ行ったときは、「カルチャーショック」というのは感じませんでしたが、東ドイツでは全てが「しぇーーー ありえない~!」の連続。だけど西と変わらないのは、人々の温かい笑顔と優しさ、見知らぬ国への好奇心。品物がなければ、ないなりに工夫してもてなしてくれました。庭でとれた野菜や果物、自家製のワイン、「コネ」で手に入れた貴重な食材・・・。

公のルートでは何も手に入らないため、人々は4時くらいに仕事をさっさと片付けると、家に戻ってせっせと大工仕事や家庭菜園に精を出していました。手に職のある人たちは、schwarz (=正規ではなく、ウラ)で仕事を引き受け、家を建ててあげたり、電化製品を取り付けてあげたり。比較的物資が豊かな首都ベルリンはともかく、地方の品不足はとても深刻でした。それでも1歩家に入ると、随所に工夫が見られ、それなりに豊かな生活をしている様子も伺えました。ないところにはないけれど、あるところにはある…。おかしいな、DDRでは貧富の差がないはずなんだけど。

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2006年5月 8日 (月)

DDR (ドイツ民主共和国~東ドイツ) その3

国境での検査

話は前後しますが、当時の国境での検査は厳しかったです。ベルリンを走るS-Bahn (Sバーン、電車です)の Friedrichstraße (フリードリヒ・シュトラーセ)駅で国境審査を受けたこともありましたが、ハノーファーから列車で東へ向かい、途中で審査を受けたこともありました。自家用車による国境越えでは、係官が鏡を使って車体の裏までくまなく調べたそうです。そんな様子を実際に見て覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。

それでも私は日本人でしたので比較的スムーズに終わりましたが、ドイツ人は長くかかることもあったようです。

でも忘れられないのは、検査待ちの長い行列。化粧合板で出来たような、ちゃちいブースが幾つかあり、そこへ一人ずつ入って審査を受けます。Bürger der DDR (東ドイツ国民)、Bürger der BRD (西ドイツ国民)、Bürger der anderen Länder (その他の国民)と分かれていた記憶があります。東ドイツ国民も、60歳になれば親戚のお祝いなどで西に旅行することが許されていましたから。

で、私は「外国人」の列に並んだわけです。ところが私の順番が来ると、別の外国人が横からスッと入ってきました。そうしたら、隣の列の東ドイツのおばあちゃんたちの怒ること、怒ること。「アンタ、次はこのアジアのお嬢ちゃんの番よ!!!横入りしちゃダメじゃない、並びなさい!ったくもー、親の顔が見てみたいよ!!!」とまで言ったかどうかは分かりませんが、とにかく大勢のご老人がその人を叱り付けたのにはビックリしました。

ドイツ人は順番を守ることに厳しいとはよく言われますが、東ドイツ人も同じでした。さらには、当時の東ドイツは慢性的物不足で行列が当たり前でしたから、順番を守って辛抱強く待つことは常に要求されたことだったのでしょう。(後日また書かせていただこうと考えておりますが、映画「トンネル」でも主人公の妹が店の行列で並んでいるシーンがありましたね。)

そうして審査を終えて出てくると、そこはもう東ドイツ。駅舎は すすけてボロボロ。党(SED、ドイツ社会主義統一党)のプロパガンダは貼ってあっても企業の広告はナシ。ホーネッカー議長の写真は掲げてあっても女優さんや俳優さんのポスターはナシ。西の広告は視覚に訴えるために様々な色を駆使し、ロゴも工夫してあります。ところが東側の文字ときたら、戦争中のナチほどじゃないけど、いかめしい字体でして(さすがにヒゲ文字ではなかったけど)、それだけで威圧感が。

こうした光景を目にするたびに、「ああ、東ドイツにやってきたんだ・・・」と実感するのでありました。友人たちへのお土産は、ハノーファーで買い込んだ板チョコ、本物のコーヒー、ストッキング。かばんにたくさん詰めて、ローカル線で目的地へ…。

それでも首都ベルリンや観光名所ドレスデンは、まだマシなほうでした。1歩奥へ入ると、タイムスリップしたの?と思うくらい寂れていて、「ここはどこ?私は誰?」状態。先日も書きましたが、石炭の質が悪いのに加え、環境対策が遅れていたとのことで、建物がどれも黒くすすけていました。一般の家はもとより、マイセンの大聖堂も真っ黒。排気ガスを噴き出しながら道路を走るのはご存じTrabant、愛称「トラビ」。あれがガタガタガタガタ・・・・と車体をきしませながら走るのです。(別の日に友人の愛車トラビで北上し、バルト海にある島まで旅行しました。いつ車の底が抜けるかと生きた心地がしませんでした、マジで。)

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すみません、まだまだDDR話は続きます。読んでくださり、感謝いたします(^^)

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2006年5月 7日 (日)

DDR(ドイツ民主共和国~東ドイツ) その2

東ドイツのことを書き始めましたら、止まらなくなってしまいました。翻訳とは全く関係のない個人的な思い出話ですみません。さらに新しいカテゴリー「DDR(ドイツ民主共和国、旧東ドイツ)」というものを作ってしまいました。読んでくださり、感謝いたします。

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恐るべし、シュタージ

壁が崩壊し、東西ドイツが再び統合して数年経った頃のこと。元東ドイツの友人からメールをもらいました。それによると、彼も多くの元東ドイツ国民と同様、秘密警察であった Stasi (シュタージ、国家保安省)による監視調書の開示を請求したとのこと。その中に、少しだけど私のデータもあったから、スキャンして送るよ、ということでした。

Info_1 

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私に関するデータは3枚からなっていました。個人情報も含まれますので、ごく一部だけ載せさせてください。私や訪問先の友人の個人データ(生年月日、現住所、勤め先、旅券番号など)は ビザを取得する際に申請しますので 、データにあっても不思議ではないのですが、申請した内容以外にも色々と記載されていました。ちなみに国境の検査では、旅の目的や滞在日数などを係官に尋ねられますが、個人的なことは聞かれていません。

その友人とどうして出会ったか、私が大学で何を専攻していたか、仕事で具体的に何をしているか、どの程度のドイツ語を話せるか、訪問先の友人は大学で何を専攻しているか。そういった細かな情報が小さな字で書き込まれていました。そして行きの列車の中で日本人と乗り合わせていたことも触れられていました(誰だったか私も覚えていないのです)。ただし、報告した人物の名前(複数)はマジックで消されていました。開示請求した友人が消したのか、元々消されていたのか分からないのですが。

訪ねた友人は学生でしたので、大学の食堂(Mensa)や学生寮(Studentenwohnheim)へつれていってもらい、何人かの学生と歓談もしましたし、観光地で知らない人と立ち話もしました。その中に IM(Inofiizieller Mitarbeiter、非公式協力者)がいたんでしょうね。特に大学は思想のチェックが厳しかったらしく、多くの『Spitzel (スパイ)』が混じっていたと聞きました。

当時から東ドイツ政府の恐ろしさというのは肌で感じていたのですが、一観光客、それもいかにも人畜無害って風貌の日本の小娘(当時は若かった!)の取るに足らない情報まできっちり記載してあったことを知り、鳥肌が立ってしまった次第です。

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長々とすみません。またDDRのことについて、書かせてくださいね。書いているうちに忘れていた思い出までよみがえってしまいました~

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2006年5月 6日 (土)

DDR(ドイツ民主共和国~東ドイツ) その1

マイセンの友人宅へ(1986年7月)

私がドイツにいた頃は、まだ東西を隔てる壁が存在した時代でした。日本に住む今、ドイツの最新事情には疎いのですが、冷戦の末期の頃のことはよく覚えています。

ドイツへ行って最初の休暇。東ドイツのマイセンに住むペンフレンドの家へ遊びに行くことになりました。

西ベルリンから東ベルリンへ日帰りで行くのは簡単だったのですが、公共のホテルではなく個人宅に滞在するには、あらかじめ申請しておく必要がありました。Das Reisebuero der DDR という国営の旅行会社に申請すると、数日たって許可証が送られてきます。それを国境で提示するとビザを発行してもらえるシステムだったと思います。さらには、1日に最低 25ドイツマルクのMindestaustausch (両替)が義務づけられていました。東ドイツの外貨獲得のための政策です。7日間の予定でしたので、25ドイツマルク × 7 = 175ドイツマルクを東ドイツのマルクに替えました。(余談ですが、当時の東ドイツマルク札は紙の質が悪く、ボロボロ。硬貨はアルミ製。1ペニヒ玉ならともかく、すべての金種がアルミ製というのは、何となく心細く見えました。)

国境を通過する際、一人ずつ検査を受けます。シャレが全く通じそうにもない無愛想な係官がパスポートをチェックするのですが、あの何とも言えないゾッとするような雰囲気、当時を知る方ならきっと今でも覚えていらっしゃることと思います。ソ連ほどじゃないにしても、東ドイツも「こわい」というイメージがありました。

国境を越えると景色が一変。西ドイツでは窓辺に花があふれ、家々はきちんと手入れされ、それはそれはのどかな景色が広がっているのです。ところが東側では花は一つもなく、屋根はボロボロ、壁は薄汚れていて、空の色もなんとなくどんより(石炭の質が悪く、環境対策も遅れていて公害がひどかったらしい)。

途中の駅で友人が出迎えてくれました。彼女は満面に笑みを浮かべて歓迎してくれましたが、駅舎はボロボロ、乗り換えた列車もガタガタ(古いため、きしみがひどい)で埃っぽく、車窓も西独に比べて何となく寂しげ、煙突からは黒い煙がもくもく…。行ったその日に、西側へ逃げ帰りたくなりました。20年経った今もあの光景は脳裏に焼きついています。

行った先では日本人が珍しいらしく、色々な人が話しかけてくれました。そこで新しい友達ができ、そのご家族が「次の休暇においでよ」と家に招待してくださり、友達の輪が広がりました。・・・広がったのはいいのですが、休暇のたびに東ドイツへ行くことになり、会社の人からは「あんまり行くと危ないから よしたほうがいいよ」と言われました。

「まっさか~。日本人の小娘が東ドイツへ行ったところで、どってことないよ~」と当時の私は思っておりました。

ところがどっこい、IM (Inoffizieller Mitarbeiter、国家保安省への非公式協力者) は やっぱりいたんですね。壁が崩壊してだいぶ経ってからですが、元東ドイツの友人の一人が Stasi (シュタージ、 国家保安省)の資料の開示を求めたところ、彼の資料の中に少しですが私のデータもあったのでビックリ! 誰だ?当局にチクったのは!

ご存じの方も多いと思いますが、ご参考までに:「1991年11月、『シュタージ文書法』が議会を通り、1992年1月1日、シュタージが行った監視の調書を一般に公開していった。手続きを済ませれば自由に閲覧が許可され、多くの市民が、自分の調書を閲覧できた。誰が自分を監視し、密告したのか。親友が、仲間が、弁護士が、そして自分の妻や夫が密告者であることも稀ではなかった。調書に記された執拗な記録は、多くの市民を憤慨させた。」(『ドイツの秘密情報機関』関根伸一郎著 より抜粋)

で、この続きはまた明日・・・(すみません、つい思わせぶりな書き方なんかしちゃいました。誰も期待なんてしてないのに…。)

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